1年7組花井梓、そいつは坊主頭で背の高い野球部の男子だ。私、小野田梨花は同じく1年7組。つまり花井は私にとってクラスメイトの一人なのだが、私は花井のことが嫌いだった。
花井夢小説「コイントス」
花井を嫌いになったのは、西浦高校入学初日の出来事が理由だ。クラスで初めてのホームルームの時間、当然ながら自己紹介の時間が設けられた。クラスの全員が皆の前で自らの氏名を名乗り、趣味や特技や所属する部活について話をした。私、小野田梨花も皆に倣って自分の趣味について話した。梨花の趣味はミュージカル鑑賞だ。歌のない演劇も好きだけど、歌で感情を表現するミュージカルは格別に好きだ。梨花自身も歌うことが好きで部活は音楽部に入るつもりだった。
「小野田梨花です。桜田中学出身です。趣味はミュージカル鑑賞です。感情を歌に乗せて高らかに表現するところが好きです。部活は…」
梨花が続けて話そうとしたところに「ミュージカルぅ?」という声が聞こえてきた。チラリと声のした方を見ると坊主頭の気の強そうな男子が椅子にふんぞりかえっていた。それが花井だった。花井は隣の席の男子に「なぁ、お前はミュージカルいけるクチ?オレァ無理だわ。なんで急に歌い出すんだよって感じ」と嘲るように話していた。
「…部活は音楽部に入りたいと思ってます。1年間よろしくお願いします。」
梨花は花井の言葉を無視して自己紹介を続けた。話が終わって着席した後、梨花は花井の言葉を頭の中で反芻する。
『そりゃミュージカル苦手な人がいるのは知ってるよ。日本の文化にはあまり馴染まないこともわかってる。別に世の中の人全員にミュージカルを好きになれなんて思わない。でも…わざわざ好きだって言ってる私に聞こえるようにあんなこと言うことなくない?何あいつ!超ヤなヤツ!』
梨花は内心怒りが込み上げてくるのを堪えて平静を装った。
その後、例の"ヤなヤツ"の自己紹介のターンがやってきた。
「花井ッス!趣味・特技は野球です。中学時代は野球部のキャプテンをやってました。打順は4番でした。よろしくおねがいしあすッ!」
梨花はあの"ヤなヤツ"の名前は"花井"だと頭にインプットした。
『野球部ね。だから坊主なんだ。ふんっ、私だって野球部なんか無理だね!あんな泥臭いスポーツの魅力なんか微塵もわからないわよ!』
口に出すことはしなかったが、さっきの仕返しに梨花は花井の自己紹介に心の中でケチをつけた。
梨花にとってはそれだけでも花井のことを嫌いになるには十分すぎるエピソードなのだが、元々の第一印象が悪いせいだろうか、その後も梨花は花井のことが色々と鼻についた。あの自信満々な態度や強気な性格、デカい声、野球部優先でクラス活動に全然参加しないところ。それから梨花はミュージカルが好きなだけあって英語が得意なのだが、どうやら花井も英語が得意らしくてそこもムカついた。あとはミュージカルを馬鹿にしたくせに、音楽を選択しているところとか。それから、ピアノが弾けるところとか…!(梨花はピアノは小1で挫折した。)
『何もかも、いけ好かないヤツ』
梨花はずっと花井のことをそう思っていた。
そんなある日のことだった。
「ねー、梨花!今度さ、野球部の夏の大会の試合があるんだって!一緒に応援に行かない?」
音楽部の部活のために音楽室へと向かう途中、友人にそう声をかけられた梨花は”野球部”と言う単語に頬がピクッと引き攣るのを感じた。
「え、なんで野球部の応援?ウチら全然関わりなくない?」
「あるよー!うちの野球部今年できたばかりだから部員1年生しかいないんだって!だからうちのクラスの花井君と阿部君と水谷君、レギュラーで試合出るんだって!」
梨花は”花井君”という言葉にまた自分の頬のあたりが強張るのを感じた。そんな梨花の様子には全く気付かない友人は続けて言う。
「花井君って野球部のキャプテンなんだってよー!1年生で主将やってんの、すごいよねぇ!」
その言葉で梨花は入学した日の花井の自己紹介を思い出した。
――中学時代は野球部のキャプテンをやってました。
『へえ、中学もキャプテンやって、高校でも1年生からキャプテンねぇ?。だからあんなに偉そうなんだ』
入学式の日のあのムカつく出来事を思い出した梨花はまた怒りが込み上げてきて思わずフンッと鼻を鳴らす。友人は梨花の様子を見て疑問を抱いたらしく、音楽室の扉を開けようとしていた手を止めた。
「え、どした?」
梨花に訊ねる友人。梨花は少し迷ったが、この友人になら正直に気持ちを吐露してもいいかなと思った。
「私、花井君、嫌いなんだよね。応援なんかしたくない。」
「え?そーなの?どーして?」
「………私、入学初日の自己紹介の時、ミュージカルが好きだって言ったら花井君に鼻で笑われたんだよね。ひどくない?あいつがミュージカル嫌いでも全然構わないけど好きって言ってる私の前で否定することないじゃん。サイテーだよ!だから私もあいつが好きな野球なんか嫌ってやるの。花井君のことなんか微塵も応援したくない!」
話し始めたらずっと腹に溜めていた怒りが爆発してしまって梨花はそう捲し立てた。ハッと我に返って友人の顔を見たら顔面蒼白で口をパクパクさせている。『もしかして私の口の悪さにドン引きしたかな』と思ってフォローを入れようとしたら…
「梨花っ、梨花っ!ヤバいっ!」
友人はなぜか慌てふためいている。友人の目線は梨花の後ろの方に向いていた。
「え、何が…」
疑問に思って後ろを振り返る梨花。そこにはバツが悪そうな顔で立ってる花井がいた。梨花は自分の顔から血の気が引くのを感じた。この花井の様子からして、梨花が言った悪口を聞かれたのは間違いなかった。
『どこから聞かれた?っていうか私どこまで喋った?何言ったっけ?』
動揺のあまり混乱して自分が何喋ったかもわからなくなる梨花。
「あー…音楽部の部活もう始まってる?音楽室に教科書忘れちまったみたいで取りに来たんだけど入ってもいい?」
花井が話を切り出す。目が泳いでいる。自分が悪口言われてるところを聞いてしまったというこの状況は花井にとっても気まずいんだろう。
「あっ、みんな集まってるかもだけどまだ始まってないから、今のうちだよ。さっ、どうぞどうぞ~!」
友人は、空気を変えようとしてくれてるのだろう、極力明るい声を装って音楽室の扉を開けて花井を中へと促す。
「おお…サンキュ」
花井は音楽室に入っていった。友人は音楽室の扉を閉めてから呆然と突っ立っている梨花の横にサッと近づき、小さな声で話しかけてくる。
「どっ、どーしよ!?謝っとく!?逆に平然としといたほうがいいかな?!?」
「…………」
梨花はこの状況をどうするべきか正解がわからなくて何も言えなかった。
音楽室に忘れた教科書を確保した花井が音楽室から出てきた。音楽室の扉の前で固まっている梨花と友人をチラリと見る。
「…あー…やっぱここにあったわ。もう部活始まるところなのに邪魔してワリィな」
「いやいやー!全然大丈夫だよー!
友人が愛想笑いをする。そして梨花の耳元で小声で「ほら、謝るなら今だよ!」と言った。だけど梨花は謝るのは嫌だった。梨花は俯いたまま無言を貫いた。花井も無言のまま立ち去ろうとしない。しばしの間気まずい沈黙が流れた。
「………あの、さ…」
花井が目を逸らして気まずそうな顔をしながら口を開いた。
「……なに」
「…や、…えーっと…」
梨花の硬い口調に花井は狼狽える。梨花はそんな花井の姿にイラッとした。
『普段はもっと自信満々で偉そうにしてんだろ!こんくらいのことで怯んでんなよ!そんな態度とって同情誘ってこっちが折れると思うなよ!』
普段とは違う花井の弱腰な姿をみて梨花の中の何かに火が付いた。もうこうなったらハッキリ言ってやる!
「私、謝らないよ!事実を言っただけだもん。元々そっちが悪いんじゃん。サイテーだよね、花井君てさ!」
「ちょっと、梨花…!」
梨花を制止する友人は顔が真っ青だ。面と向かって"サイテー"と呼ばれた花井は「う…っ」と狼狽えて青ざめたが、一呼吸を置いた後、梨花に向かってバッと頭を下げた。
「小野田、ゴメン!オレ、ヒドイこと言った。小野田のいう通り、オレ、あの日"サイテー"だった。自分の好きなもん否定されるのは誰だって嫌だよな。お前は間違ってねえから何も謝ることない。謝んのはオレの方だ。」
梨花はまさか花井の方が謝るとは思っていなくて驚いて後ずさった。
「これは言い訳なんだけど、オレ入学式の日イキってたんだよ。新しく始まる高校生活でナメられないようにしてたっつーか、カッコつけようとしてたっつーか…すげー気負ってたんだ。それが裏目に出ちまった。オレあの日小野田に対してだけじゃなくて他でも色々やらかしたんだよ。今はすげー反省してる。ホント、ゴメン。」
梨花はその言い方が癪に触った。
「あ…あのね!花井君のこと嫌いなのは、あの日だけが理由じゃないんだから!まず、普段から自信満々って感じの態度で声もデカくて、偉そうでムカつく!それに普段あんな態度デカいのに今ちょっと悪口言われたくらいで怯んでるのもムカつく!いつも部活優先してクラス活動サボってるのもムカつく!運動部の人達ってクラス活動サボっても許されるのなんで!?文化部だって同じ部活動なのに文化部はそんなことしないもんっ。それから英語が得意なところもムカつく!私も英語得意なのにこの間の定期試験、点負けた!悔しい!花井君には負けたくなかった!つか英語できるなら色んなミュージカル原曲で楽しめるのにもったいない!あとはミュージカルを馬鹿にしたくせに、音楽を選択しててピアノが弾けんのなんで!?そんだけ音楽できて英語もできてなんでミュージカルの良さがわからないのか!もったいない!」
梨花はこれまで溜めに溜めてきた鬱憤を全て口に出した。ポカーンとする花井。友人はハラハラしながら梨花と花井を見守ってる。
「…クク…ッ」
なぜか花井は笑い出した。そして「あ、ワリィ…」といいながら口を右手で覆う。でも笑いは抑えきれないみたいで肩が震えてる。
「な、なにがおかしいのよ…!!」
笑われて恥ずかしくなって顔が赤くなる梨花。
「いや…クッ…ごめん…、なんか、怒り方が…ッ…かわいらしーなと思って…」
「な、なに、バカにしてんの!?かわいいとか言われたってほだされないよ私は!」
「いや、ワリィ、別にバカにしてるわけじゃないんだ」
花井は左手を左右に振って否定する。
「……でも最後の方なんか、ただの私怨と嫉妬が混じってるし…、最終的にミュージカルの布教活動に落ち着いたなと思ったら…ククッ…なんかおもしろくてな…ッ」
「今まで思ってたこと正直に口にしたらなぜかそーなっちゃったの!うるさい!」
梨花は目をキッと吊り上げながら言う。花井はまだ肩を震わせている。
「わかったよ、オレにはミュージカルを楽しめる素質が備わってるってことだろ?じゃーさ、入学初日に小野田にヒデーこと言っちまったお詫びになんかミュージカル観てみるよ。つってもいきなり舞台はハードル高いし時間もねえからミュージカル映画とかでいいか?なんかオススメあったら教えてくれ。」
「…え」
全く予想だにしていなかった回答に驚いて固まる梨花。
「なんかオススメとかないの?趣味なんだろ?」
「ある!!いっぱいある!!ってか私色々DVD持ってるから貸す!!サントラCDとかもある!!」
「いいの?」
「いい!全然いい!むしろ、是非お願いします!」
急にノリノリになった梨花を見て、ブブッと花井が吹き出して笑い出した。
「やべー、オレちょっと小野田ツボかも」
「ちょっと、バカにしないでよ!」
「してないって」
花井は梨花の頭をポンッと叩いた。
「じゃあ今度オススメのミュージカル映画のDVDとサントラ貸して。どれにするかは小野田のセンスに任せるから。」
花井はパッと明るい笑顔を見せた。その爽やかな笑顔があまりに素敵で梨花は胸がキュンとした。
「そろそろ発声始めるよー!」
音楽室の扉が開いて、部長が顔を出した。梨花と友人に早く音楽室に入るようにいう。
「やばっ、今行きます!」
友人が慌てて返事する。花井もケータイで時間を確認して
「おっと、やべ、オレももう部活行かねーと」
と言いながら慌てて駆け出した。あっという間に遠くなる花井の背中に梨花は大声で呼びかける。
「花井君ー!明日ー!持ってくるからー!部活頑張ってねー!」
「サンキュー!そっちもがんばれよ!!」
「これぞ"雨ふって地固まる"って感じだね」
音楽室に入りながら友人が梨花に声を掛ける。
「…うん。ね、やっぱり野球部の試合の応援、私も行こうかな」
「おおー!やった!一緒に行こう!花井君応援しようねっ」
「…うん、する!」
"嫌い"という感情は案外簡単に違う"何か"に変わってしまった。
まるでコインがひっくり返るみたいに。
<END>