花井夢小説「Closer To You」
その日、小野田梨花はいつもより早く登校した。そして梨花はある人物の到着をドキドキ・ワクワク・ソワソワしながら待った。その人物は8時10分になると同じクラスの阿部・水谷と一緒に教室へと入ってきた。梨花がずっと待っていた人物、その人の名前は花井梓だ。坊主頭で背が高くて堂々とした態度の花井はとてもよく目立つ。昨日までの梨花はそんな花井のことが嫌いで、嫌でも目に入ってくるその姿のことを内心苦々しく思っていた。しかし、昨日ひょんなことから花井と会話をすることになった梨花は花井への認識を改めるに至った。それから梨花は花井にオススメのミュージカル映画のDVD&サントラを貸す約束をした。梨花は早く花井にそれを渡したくてはやる気持ちが抑えきれなくて今日は早くに登校したというわけなのだ。「花井君、おはよう」
自分の席に着席する花井に梨花はおずおずと近づいた。
「あ、小野田か。おっす!」
花井はそう言ってにこやかに笑った。
「あの…、昨日の約束、覚えてる?」
「おお、もちろん。もしかして持ってきてくれたのか?」
「そうなのっ!」
梨花は手提げの紙袋を花井に差し出した。
「おー!サンキュ!中見てもいい?」
「うん!っていうかちょっと説明してもいい?」
「おう、頼む」
花井はそう言いながら手提げの紙袋の中に入っているDVD2枚とCD2枚を机に並べた。
「ごめんね。オススメのやつ1つに絞ろうと思ったんだけど、どうしてもこの2つで迷って決められなかったからどっちも持ってきちゃったの。」
梨花がそう言うと花井は「全然いーよ!」と言って朗らかに笑った。梨花はまず1つ目のDVDを手に取って花井に見せた。
「これはミュージカル界の金字塔と言われる"レ・ミゼラブル"の映画版DVD!19世紀フランスが舞台なの。この頃は貴族と一般市民との経済格差が激しくて、民衆は明日の食事にも困るくらいの厳しい貧困にあえいでいたの。そんな中で食事に困ってパンを盗んだ主人公は逮捕されて19年間も刑務所に服役することになる。で、ようやく出所できたものの元犯罪者ということで差別的な扱いを受けてまた生活に行き詰まり、今度は教会から銀の食器を盗んでしまうんだ。でもそんな主人公を司祭は深い愛で赦し、"この食器を売ったお金で清く正しい人になりなさい"と諭してくれるの。そうして改心した主人公と革命を起こそうと立ち上がる民衆たちの激動の時代が交錯して織りなされる波乱万丈にハラハラしつつも慈愛に生きる主人公に胸を打たれる感動の物語!」
梨花がそう捲し立てると花井は「おお…!なんかスゴそうだな。」と言った。
「レ・ミゼラブルは物語自体ももちろん感動的なんだけど、やっぱり劇中で歌われる音楽がもう最高なんだっ!もしフランス革命とかナポレオン時代とか7月革命とかに興味がなくても、この音楽の素晴らしさだけは万人にわかってもらえると思ってやっぱり外せなかったの…!」
「そうか、オレ世界史はそんな得意じゃねえけど、小野田の熱意はスッゲー伝わった!見てみるよ。」
花井はそういってカラッと笑った。
「ありがとう!!」
梨花はそう言って頭を下げた。
「で、次は…アニメ映画か?」
花井は2つ目のDVDを手に取って表紙を見ながらそう言った。
「うん!こっちは"心が叫びたがってるんだ。"っていうアニメ映画で、厳密に言うとミュージカル映画ではないんだ。だけどミュージカルを題材にしている作品で私は結構好きなの。ざっくりとしたあらすじを説明すると、主人公たち高校生が学校のイベントでミュージカル公演することになり、実際に存在する名曲をアレンジしてそこに歌詞をつけて、オリジナルのミュージカルを作り上げるっていう話!あの有名なベートーヴェンの"悲愴"とかオズの魔法使いの"Over the rainbow"とかが使われてるんだよ!そのアレンジがすっごくステキなの。あとこの作品には野球部の男子も登場するから花井君も多少は親近感を感じられるかなって思ったし、"レ・ミゼラブル"よりかはこっちの方が取っ付きやすいかなと思って入れてみました!」
梨花が語り終わると花井はククッと笑った。
「小野田って本当にミュージカルと音楽が好きなんだな。熱量がスゲエ!」
「ご、ごめん…。引いた?」
「いや、解説のおかげで俄然興味が湧いたぜ。絶対観る…けどしばらく借りてもいいか?月曜以外は毎日9時まで部活があってさ、部活終わりは観る体力残ってねーんだ。」
「いや、全然急がなくていいよ!ゆっくり観て!1ヶ月でも、2ヶ月でもそれ以上でも全然平気!」
梨花がそう言うと花井は「そんなにはかからねえよ」と言いながら可笑しそうに笑った。
「てか野球部って毎日21時まで部活やってるんだ?すっごい大変そうだね。」
「そうなんだ、もうすぐ夏大が近いからさ」
「野球部の夏大…って甲子園?」
梨花は野球に疎く、甲子園がどういうものかもよくわかっていなかった。
「甲子園に行くには埼玉県の夏の大会で優勝しなきゃいけねーんだ。その夏の大会がもうすぐ始まるんだよ。」
「なるほど、そういう仕組みなのね!よくわかってなくてごめんね。」
「いやいや、野球興味ねえとわかんねえよな」
「あの、さ…、夏大の応援、私も行っていい…?」
梨花はおずおずと申し出た。
「もちろんいいよ!来てくれたらスッゲー嬉しい!」
花井はそう言ってニッと笑った。
「私、野球のルールとかよくわかんないんだけど、そんなんでも平気かな?」
「大丈夫じゃねーかな。応援団が色々指示出してくれっと思うからそれに従って声出してくれればいいと思う。選手が打席に立った時にその選手の名前呼んだりさ。」
「じゃ、花井君の名前呼ぶよ!私、音楽部だから肺活量と声量には自信あるんだよね!」
梨花はそう言った。花井は「マジか。小野田の声、楽しみにしておくな。」と言ってニカッと笑った。
それから約2週間後のある日、梨花が登校して着席すると花井が近づいてきた。手に紙袋を持っている。
「うっす!」
花井はそう言いながら梨花に向かって右手を上げた。
「おはよう、花井君」
「遅くなってごめんな。借りてたDVDとCD返すよ。ちゃんと全部観たし聴いたぞ!」
花井はそう言いながら梨花の前の座席に座った。
「どうでしたか…?」
梨花は緊張した面持ちで花井に訊ねてみた。
「スッゲー良かったよ。母親と妹と一緒に観たんだけど、母親はレミゼ観ながら号泣してたし、最近家でもずっとレミゼの曲流してんだ。」
花井はそう言って笑った。
「おお、お母さんに刺さったか!嬉しいな!」
「母親は特にファンテーヌの曲のシーンが気に入ったみたいなんだよな。オレはアンジョルラスが好きだ。」
「うわ、花井君、いかにもアンジョルラス好きそう!めちゃくちゃ解釈一致だ。」
「そうか?」
「うん、ていうか花井君がアンジョルラスっぽいもんね。チームのリーダー格!」
梨花がそう言うと花井の頬が少し赤くなった。照れくさそうだ。
「小野田は誰が好きなんだ?もしくは好きなシーンとか。」
「私はね、好きな曲は"民衆の歌"かな。"Do you hear the people sing?"っていうやつね。」
「ああ、わかる!あの民衆が立ち上がるシーンはカッケーよな!」
「そーなんだよ!歌詞も良くない?」
「いいよな!"二度と奴隷にならない民衆の歌だ"ってところとか"自由になる権利を得るための戦いに参加しよう"とかな。」
「うんうん、それそれ!」
「あと、ここさけも観たぞ。妹たちはこっちが刺さったみたいだな。最近よく玉子の歌口ずさんでるよ。」
「玉子に言葉を捧げるやつね!」
「そうそう。オレはここさけは成瀬順が知り合いに似ててなんかつい感情移入しちまったわ。」
花井はそう言って苦笑した。
「成瀬順に似てる知り合い?喋れないの?」
「全く喋れねえわけじゃないけど、スッゲーどもるしカタコトなんだよ、そいつ。ちなみに野球部のエースな。」
「えー、そうなんだ。じゃあ、西浦の1年生ってことだよね?なんていう人?」
「9組の三橋廉っていうやつ。小野田は今度夏大の応援来てくれるんだろ?投手だからたくさんそいつ見れるぜ。」
花井はそう言ってニィッと口角を吊り上げて笑った。
「それは楽しみだわ!私、成瀬順好きなんだ。"わたしの声"を歌ってる成瀬の歌声めっちゃ透き通ってて憧れる。」
「あー、オレもそれ好きだ。"みんな、わたしの言葉を嫌ってる"って歌詞で母親がショックを受ける描写が胸にきた。」
「わかるー!私、あのシーンは毎回ボロ泣きしちゃう!」
「てかあの曲の原曲ってイングランド民謡の"グリーンスリーブス"だろ?オレ、あの曲ピアノ弾けるぜ。」
「マジ!?弾いてみせて!ちょうど今日5限目に音楽の授業あるよね!」
「おー、いいぜ!」
花井がそう言ったところで担任教師が教室に入ってきたので花井と梨花の会話は中断となった。
その日の5限目、音楽の授業のために梨花が友人と一緒に音楽室に向かっていると音楽室からピアノの音色が聴こえてきた。その曲は梨花の大好きな曲だ。梨花が急いで音楽室に駆けつけて扉を開けると花井がピアノを弾いていた。弾いている曲はイングランド民謡の"グリーンスリーブス"だ。ピアノを弾いている花井の周りには同じクラスの水谷・篠岡ともう1人知らない男の子が立っていた。
「花井君っ!」
梨花がピアノの椅子に座っている花井の背中に向かって声を掛けると花井は手を止めて梨花の方を振り返った。
「おー、待ってたぞ!」
「もう1回最初から弾いてくださいっ」
梨花はそう言って頭を下げた。
「久々に弾くからちょいちょい間違えるけどそれは許してくれよ」
花井はそう言って最初から曲を弾き始めた。
「すごい、すごーい!」
梨花はそう言って拍手をした。
「小野田、"わたしの声"の歌詞覚えてっか?」
「もちろん覚えてるよっ」
「じゃあ、歌ってくんね?」
「え!」
梨花はそう言って顔を赤くした。だってもうまもなく授業が始まるので音楽室には続々と生徒たちが集まっている。知らない人たちが大勢聴いている前で歌えと言うのか。
「だって小野田って音楽部だろ?人前で歌ったりするもんなんじゃねーの?」
「いや、うん、まあ、そうだけども!」
梨花が狼狽えていると花井は「じゃ、最初から弾くぞ」と言って伴奏を始めた。梨花は『うー、もういっか!歌っちゃえ!』と割り切って準備を始めた。梨花が花井の伴奏に合わせて歌い始めると音楽室にいる生徒たちから「うおっ」というどよめきの声があがった。梨花は最初は少し緊張したが、やはり普段から部活動で歌を披露しているだけあって歌唱力には自信があったし、何よりも大好きな曲を花井の伴奏で歌うことができてとても嬉しかった。梨花が歌い終わると音楽室でそれを聴いていた生徒たちから拍手が起きた。梨花はみんなに向かってペコッと頭を下げた。
「小野田、やっぱ歌うめーんだな!」
花井がそう言った。
「あはは、ありがとう」
梨花は照れ笑いをした。
「成瀬順の透き通った声に憧れるって言ってたけど、小野田だってスゲエ透明感のある声してんじゃん」
「えー、それすごく嬉しい」
「今度、ベートーヴェンの"悲愴"と"Over the rainbow"も練習しとくから、"心が叫びだす~あなたの名前呼ぶよ"も歌ってくんねえ?オレ、その曲好きなんだよな。」
「その曲は1人じゃ歌えないなー」
梨花がそう言うと梨花の友人(同じく音楽部所属)が「じゃあ、私が片方歌うよ」と言ってくれた。
「やってくれるの?」
梨花は友人に向かってそう言った。
「部活中に練習の時間取ろう!」
「いいね!」
梨花は友人と顔を見合わせて笑い合った。
「おし、決まりだな!」
花井もそう言ってニカッと笑った。
5限目の始まりの時間になると音楽の教師がやってきた。梨花は友人と一緒に席に着席した。教師が話をしている中、友人は小声で梨花に話しかけてきた。
「いつの間にか花井君と仲良くなったんだね」
「うんと、まだ仲良いっていうほどじゃない…けど」
「けど?」
「もっと…仲良くなれたらいいな」
梨花はそう言ってクシャッと笑った。
<END>