「おはよー!みんなー!新しいマネジが来たよー!」
その言葉を聞いた篠岡千代はそれはもう飛び跳ねたいくらいに嬉しい気持ちだった。
三橋夢小説「鳴かぬ蛍 番外編1」
「1年9組の西野夏波です!野球部の試合は2回戦・4回戦・5回戦を観戦させてもらいました。みんなすごかったです!とても感動しましたし、勇気をもらいました!私もみんなと一緒にがんばってみたいなと思ってマネジに志願します。野球のルールも分からないようなド素人ですけど、何らかの形でお役に立てれたら嬉しいです。よろしくお願いします!」そう挨拶をした可愛らしい女の子の姿に篠岡は目をキラキラを輝かせた。
篠岡千代は4月に入学してから今まで西浦高校硬式野球部のマネジをたった1人でこなしてきた。マネジの仕事は多岐に渡る。裏グラは校舎から離れている上に裏グラの蛇口の水は飲めない水なのでジャグにドリンクを作るのだってわざわざ数学準備室まで行かなきゃいけないし、おにぎり作りも11合分のお米を炊かなきゃいけないし、夏大2回戦の対桐青高校戦の直前なんかは徹夜してデータを作ったこともあった。10人いる選手たちの面倒を1人で見るのはなかなかハードだった。
『他にもマネジが欲しい~』
以前からそう思っていた。そんな折、野球部の目標を決めることになり部員全員で話し合った結果、野球部の目標は"全国制覇"に決まった。目標に合わせて練習もこれから厳しくなる。ということは、マネジもその分忙しくなることは目に見えていた。篠岡は『たった1人で全国制覇を目指す選手10人を支えるのかー…』と若干憂鬱になりながら水撒きをしていた。そこに百枝監督が新しいマネジの女の子を連れてきたのだ。嬉しくないわけがなかった。
新しく入ってきたマネジの西野夏波はとてもいい子だった。仕事を教えたらちゃんとメモを取るし、覚えた仕事は率先してやろうとするし、真面目で一生懸命でやる気がある。とてもがんばってくれているのは見てればわかった。夏波本人もマネジの仕事は今のところやりがいをもって取り組めているらしかった。篠岡は西野夏波のことをとても好ましく思った。
そう、とても好ましい、素敵な子。
だからこそ、篠岡には1つ懸念することがあった。
実は、篠岡千代は野球部の正捕手である阿部隆也に片思いをしていた。でも、想いを伝える気はさらさらなかった。野球を一生懸命がんばる阿部の邪魔をしたくなかったし、自分のこの恋心のせいでチームの輪を乱れさせてはいけないと思った。せっかくみんなが仲のいい素敵なチームなんだから恋愛沙汰で引っかき回したくなかった。そして何より篠岡が好きなのは野球に一生懸命な阿部隆也であって、恋愛にうつつを抜かす阿部の姿など想像もできなかった。
だから想いを伝える気はない。恋を成就させたいとも思わない。
けれど、そんな篠岡でもさすがに友達と好きな人が被るなんて事態は避けたかった。
篠岡は夏波のことを好きになればなるほど、"万が一夏波ちゃんが阿部君のことを好きになったらどうしよう"という不安が募った。
『私は阿部君に告白するつもりはないし、付き合いたいとは思わない。でも夏波ちゃんは違うかもしれない。というか普通は好きな人とは付き合いたいって思うものだし。この先マネジとして阿部君と過ごす時間が増えたら、夏波ちゃんも阿部君のカッコよさに気が付くかもしれない。もしそうなったら…私はどうしたらいいんだろう。たった2人しかいないマネジが恋愛沙汰で仲違いなんて最悪だ。』
――…でも、もし夏波ちゃんに既に好きな人がいて、それが阿部君以外の人だったら、そんな心配もなくなる…。
篠岡は、少なくとも現時点では夏波は阿部に恋心を抱いていないという確信があった。なぜなら夏波のマネジ体験初日にマネジレクチャータイムと称して各選手たちの説明をした時、夏波は同じクラスの三橋・田島・泉とキャプテンの花井以外はほとんどわからないと答えたからだ。その後、思い出したように
「あ、そういえばキャッチャーの阿部君もわかるよ!いつも三橋君に会いにうちのクラスに来てるから」
と言っていたが、もし夏波が阿部に既に恋していたとしたらそんな言い方にはならないはずだと篠岡は考えた。
『夏波ちゃんって好きな人とかいないのかなァ』
――いてくれたらいいのに。
篠岡はそう思った。自分勝手な考えで申し訳ないが、もし夏波に既に好きな人がいてくれたら、今後夏波が阿部に惹かれてしまって泥沼展開になるとかいう可能性はかなり低くなる。
『今度の合宿の時、どこかのタイミングで聞いてみよう』
篠岡はそう思った。
そしてその時はやってきた。
夏合宿2日目の夜、選手たちが体幹を鍛える体操をしている時間、百枝監督と志賀先生は管理室へ行った。マネジの篠岡と夏波は女子の宿泊部屋で2人きりになった。夜のミーティングの時間まではまだ時間がある。篠岡はこのタイミングで聞いてみようと思った。
「夏波ちゃんってさ、その…好きな人とかいる?」
夏波はギクリと動きを止めた。その顔はサァァと青ざめていく。
「……それは…い、いたら、マネジ…失格、だったり?」
まるで三橋みたいな話し方になる夏波。
「いやいや!そういうんじゃないよ!そんな規則はないよ!」
篠岡はそう答えながら『この反応はいるってことだな』と思った。
『夏波ちゃんは既に好きな人がいる。そしてそれが阿部君である可能性は限りなく低い。』
その事実に篠岡は胸を撫でおろした。
「千代ちゃんは、いるの?」
夏波はそう訊ねてきた。ドキリとする篠岡。言おうか言うまいか一瞬迷ったが、自分は夏波に好きな人がいることを確かめておきながら自分だけ言わないのは卑怯だなと篠岡は思い、正直に伝えることにした。
「うん、いるよ」
「………」
夏波は再び固まった。やはり顔が青ざめている。
『あ、これは…好きな人が被ってないか心配してる…?』
篠岡の予想が当たってるなら、夏波の好きな人は篠岡の知ってる人ということなわけで、…つまり野球部である可能性が高い。
『夏波ちゃんは初日に三橋君・田島君・泉君・花井君・阿部君くらいしか知らないと言ってた。でも、あの時の言い方からして阿部君はない。花井君もキャプテンだから知ってるというような言い方だったから、多分違う。だとしたら残る候補は3人(三橋君・田島君・泉君)だ。この3人は夏波ちゃんと同じクラスだし、やっぱり接点が多いと言う点からしてもこの3人のうちの誰かである可能性が高い。』
「ち、千代ちゃんの好きな人って…さ、やっぱ、野球部、なの…かな?」
夏波はまた三橋みたいなぎこちない喋り方になった。
「……夏波ちゃんとは違う人だと思うから安心して?」
「え」
夏波は驚いた表情をした。
「え、え、え、私って…そんなバレバレ…?」
「や、さすがに誰かまでは特定できてないよ?候補は3人くらいに絞れてるけど」
「なんでえええ」
夏波は顔を両手で覆った。
「いや、今の反応からして好きな人が被ってないか心配してんだろーなって思って。ってことは野球部だなって。んで、夏波ちゃんがマネジ初日の時点で名前知ってる言ってた野球部員って5人だけだったからさ。で、あの時の話し方からして花井君と阿部君はないよなって思って。」
「千代ちゃんって名探偵!?」
「あはは、なれるかなー?」
「なれるよ!」
篠岡と夏波は笑った。
「でも、じゃあ、逆に言うと千代ちゃんの好きな人はその3人じゃないってことか」
「うん、ちがう」
「よかったーーーーっ!」
夏波は安心したのか床に突っ伏した。
「私もよかった。実は夏波ちゃんが今後私の好きな人を好きになっちゃったりしたらどーしよって思ってて…。」
「あ、なるほど。私に既に好きな人がいたらその心配はなくなるもんね。だから訊いてきたのか。」
「そう、好きな人いないって言われたらまだ悶々とするところだったよ」
篠岡はハハッと笑った。夏波も「じゃあ不本意だったけどバレてよかったのかも」と笑い返した。
「え、ねえ、誰か訊いてもいい?」
篠岡はおずおずと切りだした。ここまできたらもう誰か知りたい。
「う…千代ちゃんも教えてよ?」
「うん、いいよ。…ね!まずはお互いに予想しあってみない?」
「おー、いいね、ゲームみたいでドキドキする!」
夏波は身を乗り出した。
「どっちから予想する!?」
「千代ちゃんから当ててよ。3人にまで絞れてるんでしょ。私なんて7人も候補がいるんだよ。」
「オッケー。私はねー…」
篠岡は顎に右手の人差し指を当てながら「うーん」と考える。
「…迷うけど、泉君かな。夏大の成績いいし、かなり活躍してたよね。」
「ほう?4番の田島君とかピッチャーの三橋君とかも活躍してたと思うけど、そっちの可能性は?」
「田島君は野球センスはすごいけど性格が天真爛漫すぎて夏波ちゃんは苦手そうかなって。三橋君は、まず会話するのが難しいしね?」
「ふむ」
夏波はバレないように気を使っているようで、ポーカーフェイスだ。
「夏波ちゃんは誰だと思う?」
考え込む夏波。しばらくして夏波が口を開いた。
「水谷君かな。やっぱ同じクラスの人の方が接点多くて好きになりやすいんじゃないかなって思った。水谷君っていつも千代ちゃんに優しい感じするし、お顔も整ってるし、気さくな性格で話しやすいよね。」
「私に優しいかな?みんなにああなんじゃないかな?」
「そうなのかな?」
夏波は「うーん」と考え込んだ。
「答えはどっちから言う?」
「答えを紙に書いて交換してお互いに同時に見ようよ」
「あ、それいいね」
夏波と篠岡はメモ帳を切り取って、ペンで好きな人の名前を書いた。そして2人は紙を交換する。
「せーのっで開けよう!」
「おけ」
「「せーのっ!」」
篠岡の紙:阿部君
夏波の紙:三橋君
『えっ、三橋君か!ああ、まあ、確かに試合観戦してて一番注目されるのは投手だもんね。でも夏波ちゃんと三橋君そんなに会話してるところ見たことないから意外ではあるな。』
篠岡は紙に書かれた回答を見てそう思った。
「え!へー!そうなんだ!予想外れた~。」
篠岡はそう言葉にした。
「私も外れた!」
夏波からはそう返事が返ってきた。続けて夏波はこう言った。
「え、あの、なんで阿部君?気を悪くしないでほしいんだけど、あの人、愛想悪いし怖くない?」
「アハハッ!うん、最初はそう思うよね!でも投手の三橋君のことすごく大事に思ってて、陰ながら三橋君のためにがんばってるんだよ。そこがいいの。阿部君はわかりにくいけど本当はすごく優しいんだ。不器用なせいでその優しさが報われないこともあって、あのバッテリーはたまにすれ違ってたりするけど、そういうところも含めて応援したくなる。」
「そーなんだぁ。たしかに9組に来てる時、三橋君にすごい世話焼いてるよ。"ノートの端で指切るなよ"とか三橋君が日直当番の日なのに"印刷したてのプリントは持つな"とか言ってるの聞こえてきた。」
「アハハ!言いそう~!」
篠岡はそうやって三橋に世話を焼く阿部の姿を想像したらおかしくなってきてお腹を抱えて笑った。
「夏波ちゃんはなんで三橋君なの?」
「えー、試合観に行ってさ、カッコイイなって思ったんだよ。伝わるかなぁ?例えば、対桐青戦の終盤、体力の限界を迎えても投げ切った根性のあるところとか、美丞大狭山戦9回でHR打たれてチーム全体が崩れかけた時"ワンナウトー!"って大声出してチームを鼓舞してみせたところとか。普段弱々しくても三橋君はいざという時に強さを発揮してみせるじゃない?そういう芯の強さがカッコイイなって思ったんだ。三橋君は毎日がんばってて、毎日一歩ずつ成長してる。そんな姿に感銘を受けた。そんで私もどうにかこの人の力になれないかなと思ったし、三橋君の側にいたら私も何かを掴めるんじゃないかなって思ったの。私も三橋君みたいに強くなりたいんだ。」
「すごい、好きなんだね。想いの強さが伝わってくるよ。」
篠岡は夏波の熱弁を聞いて感心した。
「試合中の三橋君のスゴさなら私もわかるよ。それに練習大好きだし、すごく努力家だよね。」
「そう思うよね!」
夏波は篠岡が理解を示したことが嬉しいようだ。
「…でも、たぶん三橋君はいずれすごいモテると思うよ。やっぱりピッチャーは一番注目されるし、TVにも沢山映るし、夏大2回戦の後も"三橋君は彼女いるのか"って訊ねてきた女子がいたよ。」
篠岡の言葉を聞いて夏波はガーンと白目をむいた。
「あ、まあ、三橋君は野球しか頭に無さそうだし、告られても付き合ったりしないとは思うけど…。あ、それはそれで夏波ちゃんもショックか。」
「や!待って、誤解しないで!私三橋君と付き合うためにマネジ志願したんじゃないよ!そりゃきっかけは三橋君だったし、今でも三橋君の力になりたいと思ってるのも事実だけど、それ以前にこのチームが素敵だなって思ったの。試合中、守備が終わる度に三橋君がチームメイトたちに声かけてもらって大事にされてるのを見て素敵な仲間に囲まれてるんだなって嬉しく思ったし、三橋君の"ワンナウトー!"ってシャウトにみんなが続いて声出しして持ち直したのをみて、三橋君もみんなを支えてるんだって思って、このチームがすごくいいチームだと思ったの。三橋君を含めたみんなが野球をがんばってるのを応援したいし、恋愛にうつつを抜かして野球のこと中途半端にする三橋君なんて全然見たくない!だから私はこの気持ちは叶わなくていいんだ。側で見ていられたらそれだけでいいの。」
篠岡は夏波の言葉を聞いて胸に熱い思いが込み上げてきた。篠岡は夏波の右手をガシッと両手で掴んだ。
「夏波ちゃん、わかるよ!!私も全く同じ気持ち!!この気持ちは叶わなくていいって思ってる。だって私も野球のことしか頭になくて野球に一生懸命な阿部君が好きだから。」
「…!!千代ちゃん!完全に一緒だっ!千代ちゃんは私のソウルメイトだっ!」
篠岡と夏波は感極まってわっとハグをした。
「夏波ちゃん、マネジがんばろーね!みんなの支えになろう!夏波ちゃんなら絶対できるよ!」
「うん、私、がんばるよ!」
『想う相手は違うけど、私たちは2人とも同じ気持ちでマネジをやってる!』
それが知れて篠岡はとても嬉しかった。
『絶対に夏波ちゃんを正式入部させてみせるぞ!!』
篠岡は心がメラメラと燃えてやる気が満ちていくのを感じた。
<END>