母親に激しく身体を揺さぶられて櫻井遥香は目を覚ました。
水谷夢小説「フォーリンラブ!」
ガバッと起き上がった遥香が時間を確認するといつも家を出る時刻をとっくに過ぎていた。あと10分で支度して家を出ないと遅刻確定だ。遥香は急いで顔を洗い、髪を梳かし、制服(もどき)に着替えて朝食も食べずに家を出た。そして自転車を必死に漕いで学校に向かった。西浦高校の校門を通り抜けると通称遅刻坂と呼ばれる急な長い坂道が校舎へと向かって伸びている。ここが一番の難関だ。遅刻坂という名称の通り、西浦高校の生徒はこの坂道のせいで遅刻してしまう人が多いのだ。でも遥香はこの坂道をえっさほいさと自転車を漕いで登りきった。遥香は運動部所属なので体力や筋力には自信があるのだ。普段は厳しい練習に対して恨み言を吐いている遥香だが、この時ばかりは日頃の部活動に感謝をした。そして坂を登りきった遥香は駐輪場に自転車を置いたら今度はダッシュで教室へ向かった。1年7組の教室に到着した遥香は扉をガラガラガラーッと勢いよく開けた。そしてすぐに教卓を見る。担任教師はまだ来ていない。ギリギリ間に合ったようだ。
「遥香!遅かったじゃん!」
「顔真っ赤だよ!?大丈夫?」
派手な登場をした遥香に友人たちが駆け寄ってきた。
「マジで遅刻するかと思ったーーーっ!」
遥香はそう言いながら友人たちに倒れ込んだ。友人たちは「間に合ってよかったねえ!」と言いながら遥香を支えてくれた。その直後、担任教師が教室に入ってきたので遥香たちは慌てて自分の席に着席した。
教室に着いてしばらくの間は遥香は自転車を必死に漕いできた影響で暑くてしかたがなかった。左手に下敷きを持って顔を扇ぎながら、右手にはハンカチを持って流れ落ちる汗を拭いた。異変を感じたのは1限目の途中だ。急いで登校してきたことによる暑さと汗が収まった時、遥香は肌寒さを感じた。
『冷房強すぎ?』
遥香はそう思って天井の空調に目をやったが、どうやら今日はエアコンは起動していないように見える。
『あれ?昨日までは冷房ついてたよな?』
遥香がそう思って周囲を見渡すと今日のみんなの服装が昨日までとは違うことに気が付いた。みんな長袖のシャツを来ていたり、薄手のニットを羽織っている。一方で遥香の服装は半袖のブラウスだ。今は10月上旬なのだが、今年は残暑が厳しくて10月になってもまだまだ暑い日が続いていた。なので昨日まではみんな半袖だったし教室も冷房が効いていた。でも今日は違う。みんなしっかり秋の装いになっている。
1限目が終わった遥香はスマホで今日の天気予報を調べた。すると今日は一気に気温が下がって最高気温は20度を下回るということが発覚した。道理で肌寒さを感じるわけだ。だって遥香のトップスは半袖ブラウスだけで完全に夏の装いなのだから。
『朝、急いでたから天気予報見る余裕なかった!何も考えずいつもの格好で来ちゃったよ~!』
遥香は昨日の夜遅くまで漫画を読みふけってしまった自分のことを恨んだ。あれのせいで寝坊したのだ。そして寝坊したから朝食も食べれてないし、服装も間違えた。
「ねえ~、誰かカーディガンとかジャケットとか持ってたりしない~?」
遥香は友人たちにそう訊ねた。
「え、ごめん!自分の分しか持ってないや。」
「何、寒いの?」
「わ、遥香、半袖じゃん!今日気温下がるって知らなかったの?」
友人たちはそう言って遥香の周りに集った。でもみんな羽織り物は持ってきていないらしい。そりゃそうだ。
「どうしよう?まだ1限終わったところでこの寒さ…風邪引いちゃう~~!」
遥香がそう言って喚いていると「ねえ」と誰かに声を掛けられた。振り返ると同じクラスの水谷が立っている。
「オレが今着てるやつでも嫌じゃない?」
水谷はそう言って自分がワイシャツの上に着ている薄手のニットを引っ張った。
「え、え!?貸してくれるってこと!?」
遥香がそう言うと水谷は着ているニットを脱ぎ始めた。
「はい、これで良ければ着てよ」
水谷はそう言って遥香にニットを差し出した。
「え、でも、そしたら水谷君が寒くない?」
「オレは大丈夫だよ。ワイシャツも長袖だし、この下には野球用のアンダーシャツも着てるし。むしろちょっと暑いから脱ごうかなって思ってたんだ。だから遠慮しないで。」
そう言って水谷はニカッと笑った。
「わあ、ありがとう!このご恩は一生忘れません!」
遥香はそう言いながら水谷からニットを受け取った。さっそく着てみた。温かいし、なんかいい匂いがする。
「おっ、いいじゃん。ちょっとデカいかもだけど似合ってるよ~!」
水谷はニットを着た遥香を見てそう言った。
「このニット、ちゃんとクリーニングしてから返すね!何日かかかるけどいいかな?」
「クリーニングなんてお金かかることしなくていいよー。でも全然急がなくていいからね。ほいじゃ!」
そう言って水谷は自席に戻っていった。水谷が去ると友人たちは遥香を取り囲んだ。そして小声で話し始める。
「え、超優しくない?ヤバくない?」
「水谷君、マジかっこいい!見てる私が惚れそうになった!」
「うんうん、今のはヤバいよね」
友人たちは遥香にニットを貸してくれた水谷をベタ褒めした。
「あのね……」
遥香は友人たちに向かってそう話を切り出した。友人たちは息を潜めて遥香の話に耳を傾ける。
「なんかめっちゃいい匂いすんだけど!」
遥香がそう言うと友人たちは「キャーッ」と色めき立った。
「ちょっと、私にも嗅がせてよ」
「いや、それはさすがにキショいって!」
「でもそういうのって胸キュンするよねっ」
こうして遥香と友人たちは水谷文貴のプチファンになったのだった。
遥香はやっぱり水谷から借りたニットをクリーニングに出すことにした。水谷はそんなことしなくていいと言っていたが、さすがにあれだけのご厚意を受けておいて家で洗濯して返しましたっていうのは申し訳ない気がした。それに借りたものがニットなので下手に家の洗濯機を使って縮んだり型崩れしたりするのも怖かった。というわけでクリーニング店に赴いた遥香が店にニットを預けた後、気晴らしにぶらぶらとウィンドウショッピングを楽しんでいると"誰でも簡単にできる手作りお菓子キット"が目についた。
『ニット借りたお返しにお菓子渡すのもありかも?』
遥香はそう思い付いた。遥香は特別料理が得意なわけではないが、苦手でもない。中学時代、ハロウィンやバレンタインになると手作りのお菓子を作って女子同士でお菓子交換会とかもやったことがある。
『よし、買っちゃえー!』
遥香は勢いに任せてその手作りお菓子キットを購入した。
あれから数日後、クリーニング店からニットを回収した遥香は明日ニットを返そうと思った。なので今晩のうちにお菓子を作る必要がある。遥香はエプロンを身に着けてキッチンに立った。遥香が作るのはアイシングクッキーだ。
『水谷君は野球部だから野球のボールの絵を描くのはどうかな!』
遥香はスマホで野球のボールの描き方を調べた。丸いクッキーを作って白と赤のアイシングクリームで塗るだけだ。そんなに難しくなさそうだ。しかもこれなら名前や背番号を入れることもできる。
『あ、水谷君の背番号知らないや』
遥香は夏に開催された野球部の試合を観戦に行ったことがあるのだが、さすがに背番号までは覚えてなかった。
『みんなは覚えてないかなー?』
遥香は友人たちにLINEで水谷の背番号を訊ねてみた。すると友人たちの1人から"篠岡さんに連絡取ってみるよ!"と返信があった。遥香はその友人からの報告を待ちながらまずは土台となるクッキー作りを進めた。しばらくすると友人からまた連絡があった。水谷の背番号は"7"だそうだ。遥香は友人にお礼のメッセージを返した後、焼きあがったクッキーにアイシングクリームで野球のボールを描いていった。そして、それに"7"という数字と"MIZUTANI"という文字を追加した。アイシングクッキーが出来上がったら、次はラッピングだ。100円ショップで買ってきた透明なラッピング袋に丁寧にクッキーを入れたら口の部分をリボンでキュッと絞った。
「完成~!!超いい感じにできた♪」
遥香は出来上がった手作りアイシングクッキーを見て大きな声で独り言を言った。そしてそれを手提げの紙袋にしまった。
クッキー作りの翌朝、遥香ははやる気持ちが抑えきれなくていつもより早めに学校に到着した。当然水谷はまだ来ていない。遥香がそわそわしていると友人の1人が登校してきた。
「え、早いじゃん。どしたの?」
友人は遥香の早い登校に驚いていた。遥香は事情を説明した。
「えー!アイシングクッキー作ったの?見せて見せて~!」
「えへへ、見て見て~!」
遥香は手提げの紙袋からラッピング済みのアイシングクッキーを取り出して友人に見せた。
「わ、すごいじゃん!」
「でしょー♪がんばっちゃった♪」
遥香は鼻高々にそう言った。そうして遥香が友人とキャッキャッとはしゃいでいると野球部の朝練を終えたであろう水谷が花井・阿部と一緒に教室に入ってきた。
「来たっ!来たよっ、遥香!」
友人が小声で遥香に話しかけた。
「ど、どど、どうしよう!今更緊張してきたんだけどどど…!」
「いやいや、すごい立派なクッキーだったじゃん!絶対喜んでくれるよ!それに水谷君てめっちゃいい人じゃん!」
「そうだね、うん、めちゃくちゃいい人だよ!で、で、でも緊張はするよ!てか今、水谷君、花井君と阿部君と一緒にいるじゃん。花井君はともかく阿部君はなんか怖いからやだよーっ。手作りクッキーとか渡してるところ見られたら鼻で笑われそうっ!」
遥香がそう言って躊躇していると友人は「まずは水谷君だけ廊下に呼び出そう!」と提案した。
「そうしよう!!ね、一緒にいてよ。そばにいてよ。」
「わかった、わかったから!遥香、一度深呼吸しな!」
遥香は友人に促されるがまま深呼吸をした。
「よっしゃ、行くぞー!」
遥香は勇気を出して水谷の方へと歩み出した。友人はその一歩後ろをついてくる。
「水谷君!今少しお時間いいでしょうか!」
遥香がそう言うと水谷は「うん、いいよー」と優しい笑顔を見せてくれた。
「えと、廊下で話してもいいでしょうか!」
「うん?いいよー?」
「では、こちらに!」
遥香はそう言って水谷を廊下へ案内した。ちなみに友人から小声で「遥香っ、手と足が同時に出てるよ!」と注意された。
「どうしたー?なんかあった?」
廊下に出ると水谷は遥香に向かってそう言った。声色がとても優しい。遥香は改めて『水谷君って素敵…!』と思った。
「あの、まずは先日はニット貸してくれてありがとうございました!」
遥香はそう言って頭を下げた。それからニットが入った手提げのビニール袋を差し出した。
「ちゃんとクリーニングしたので安心してください!」
遥香がそう言うと水谷は「ええ、クリーニングまでしてくれたの?」と驚いた顔をしていた。
「わざわざありがとーね!」
「いやいやいや、こっちがありがとうなんで!あの日、このニットのおかげで1日快適に過ごせたよっ!」
「それはよかった」
水谷はそう言ってまた優しく笑った。
『はああ、なんて眩しいの!!』
遥香が水谷の笑顔にハワ~ッとなっていると水谷はこれで話が終わりだと思ったのか「また困ったことあったら気軽に言ってよ」と言いながら教室に戻る素振りをみせた。
「あっ、待って待ってーっ!!」
遥香は慌てて水谷を呼び止めた。
「お?」
「あの、あのあの…!お礼があるんですっ!」
「お礼?」
遥香は手提げの紙袋からラッピングしたアイシングクッキーを取り出した。
「これ、よかったら食べてください…!」
遥香がアイシングクッキーを差し出すと水谷はキラキラと目を輝かせた。
「えっ、これって櫻井さんが作ったの…!?」
「作りました!!」
「わ、野球のボールじゃん!え、しかも、オレの名前と背番号が入ってんじゃん!」
「入れました!!」
「スゲーよ、櫻井さん!ありがとう、めちゃくちゃ嬉しい!!」
水谷はそう言うとニカーッと満面の笑みを浮かべた。その笑顔を見た遥香は再度ハワ~ッとなった。
「写真撮っていい?」
「どうぞどうぞ」
水谷はスマホを取り出してクッキーの写真を撮った。
「今食べてもいい?」
「え、うん。い、いいよ!」
遥香がそう言うと水谷はリボンをほどいて袋から1つクッキーを取り出した。そしてそれをまじまじと眺める。
「わー、よくできてるなぁ!…ちょっともったいない気もするけど、うまそう!いただきまーす!」
水谷はポイッとクッキーを口に放り込んだ。そして「んー!!」と言いながらもぐもぐしている。遥香は内心ドキドキしながらその様子を眺めた。咀嚼したクッキーをゴクンッと飲み込んだ水谷は再度キラキラと目を輝かせた。
「コレ、スッゲーうまいよ!櫻井さん、天才だよ!」
「そんなそんな…、恐縮です!」
「謙遜しなくていいよっ」
そう言いながら水谷はラッピングのリボンを結び直した。
「残りは家に持ち帰って家族に自慢してから食べるね。ホントにありがとう!!」
水谷はそう言ってまたニカーッと笑った。遥香は胸がホカッと温かくなるのを感じた。
「じゃあ、教室戻ろっか?」
水谷はそう言った。
「さ、先に戻っててもらえますか!」
「え、そう?んじゃ、オレ戻るね。ホントにありがとね~!」
水谷はそう言って遥香たちに手を振って去っていった。
水谷が去った後、遥香は一歩後ろで見守っていてくれた友人の方をバッと振り返った。
「めっちゃ喜んでくれてたじゃん!よかったね、遥香!」
「ねえ、どうしよう!」
「え?何?何も問題なかったじゃんよ。」
友人はキョトンとしている。
「問題だよ、大問題だよ!」
「ど、どうした?」
「素敵すぎた!!ヤバい!!」
「え、それって…」
友人はそう言いながら遥香の方に顔を近づけた。
「フォーリンラブ?」
「イエス、フォーリンラブ!」
<END>