「おお振りの世界に異世界トリップ 第21章」
グラウンド整備が終わって6回表、美丞大狭山高校の攻撃が始まった。5番宮田はシングルヒットで無死一塁。6番鹿島は三振。一死一塁。7番松下はセカンドゴロとなり4-6-3のダブルプレーで三死、攻守交代となった。
6回裏、西浦高校の攻撃は7番阿部がフォアボールで出塁。無死一塁。8番水谷は三振し、一死一塁。9番三橋はバントするも当たりが強くダブルプレーを食らって三死で攻守交代となった。
7回表、美丞大狭山攻撃は8番倉田がスライダーを打ってレフト・センター間に落ちるツーベースヒット。無死二塁。9番竹之内は三振し、一死二塁。1番川島はセーフティバントを成功させた。一死一・三塁。2番石川はスクイズを警戒して1球目はボール球を投げたが石川は手を出さず。2球目でファーストランナー川島が2塁への盗塁を成功させた。一死二・三塁。3球目、次こそスクイズをやってくる踏んだモモカンからはボールの指示。三橋は大きく外れる球を投げた。エンドランで走ってくるサードランナーの倉田。西浦の読み勝ちと思いきや、打者石川が無理やりボール球を当てた。スクイズに備えてチャージをかけていた沖に阿部がグラブトスを指示する。捕球した沖がグラブでバックホームをする。…が送球ミスで球が逸れてしまった。阿部は逸れた球を無理やり捕球しに行った。サードランナー倉田はスライディングでホームベースを足でタッチしようと試みる。結果阿部が倉田の上に乗り上げるような体制になってしまった。
ドッ、ゴロゴロという大きな音とともに阿部は転がった。
「セーフ!!」
美丞大狭山高校に6点目が入った。阿部が転がった時に落とした球を急いで拾う三橋。打者もセカンドランナーも既に次の塁に到達していた。一死一・三塁。
「お、阿部!タイム!」
田島が阿部に駆け寄ってタイムを取った。阿部は転がった姿勢のまま膝を抱えてうずくまっている。
「立てないか?」
「どーした!」
審判と田島がそんな阿部に声を掛けている。ベンチからその様子を見守るモモカン・志賀先生・西広・篠岡・ナマエの5人。
『まさか…怪我?骨折か?捻挫か?』
ナマエは背筋が寒くなった。阿部は「大丈夫っす」と言って立ち上がろうとするがガクッと倒れ込んだ。
『…立てないほどの怪我だ』
ナマエは以前モモカンから借りたスポーツ事故時の応急処置に関する本の内容を思い起こした。
『骨折で病院へ搬送するにせよ、捻挫にせよ、RICE処置は実施する。準備しなきゃ。』
ナマエは急いで備品の入っているバッグの元へ向かった。タオルや氷嚢やサポーターや救急箱を取り出す。阿部は田島と三橋に抱えられてベンチに帰ってきた。
「田島君、三橋君、こっちに座らせて」
モモカンが阿部を抱えて帰ってきた田島と三橋に指示する。すぐに救護班の看護師の女性が来てくれて阿部の膝を診てくれた。
「膝の捻挫ですね。痛いでしょう。今の段階で腫れが出ているのでおそらくⅡ度以上の…」
「痛くないっすよ。捻挫ですよね。テーピングしてもらえますか。」
阿部は看護師の女性の言葉を遮ってそう言った。明らかに嘘だ。だって1人で立ち上がることができずに田島と三橋に抱えられてようやく帰ってきたのだから。Ⅱ度以上の捻挫ということは靭帯が裂けてしまっている状態だ。テーピングでどうにかなるわけがない。ナマエはアイシングのための準備に取り掛かった。クーラーボックスで氷嚢に氷を詰める。それから少量の水を加え、空気抜いて氷嚢を平らにした。その間にもモモカンと阿部のやりとりが聞こえてくる。
「左足に体重かかってないよね?今動いたら確実に悪化するし、第一、痛くてじゃがめないでしょ。」
「やれます」
阿部は脂汗をかいていて明らかに無理をしているのにやると言って譲らなかった。ナマエは阿部がどうしてそこまで意地になっているのかわかった。
『三橋のためだ。三橋との約束を破りたくないんだ。』
ナマエは前の世界で観たアニメおお振りで阿部が三橋に"3年間怪我も病気もしねえ!"と約束するシーンがあったことを覚えていた。三橋は阿部がいなくなったら自分はダメピに戻っちゃうと言っていて、阿部がいたら自分はいい投手になれるんだと言っていた。それを聞いた阿部は三橋が初めて自分を肯定する言葉を言ったことが嬉しくてそう約束していた。阿部はその約束を破ってしまうのが悔しくて、つらいんだ。そして何より阿部がいなくなったら三橋がどうなってしまうか心配なんだ。
「やれないよ。やっと立っているような人が何言ってるの。」
モモカンは意地を張る阿部にきっぱりと断りをいれた。そして田島にすぐに防具を見に付けるように指示する。西広にはレフトに入るように言った。レフトの水谷はサードに移動する。
「三橋君もすぐマウンド戻ってキャッチボールしなさい。あなたの怪我じゃないんだから投球練習はないよ。」
モモカンは三橋にマウンドに戻るように言った。でも三橋は阿部の怪我を受け入れられないみたいで呆然としている。
「マネジはRICEの準備を…ああ、氷嚢はもう準備できてるのね。ありがとう。すぐにアイシングして。15分目安ね。」
モモカンはナマエが手に持っている氷嚢とタオルを見てを見てそう言った。
「はい!パッド、テーピング用のテープ、バンテージ、膝用のサポーターも出しておきました。」
「うん、ありがとう。よく覚えてたね。志賀先生、圧迫お願いします。」
ナマエは阿部の膝のアイシングをするために阿部に近づこうとした。モモカンは突っ立っている三橋に「あなたは早く戻んなさい!みんな待ってるよ!」と急かしている。その時、阿部が三橋の右腕をガッと掴んだ。阿部は俯いて唇を噛んでいる。三橋は動揺しながらも阿部の左足が震えているのを見て口を開いた。
「あ、阿部君、座って。アイ、アイシングだよ。」
三橋の言葉を聞いて阿部はベンチに座った。でもまだ三橋の右腕を掴んだまま放さない。何も言葉にできないけど三橋をこのまま行かせたくないという阿部のやるせない気持ちがナマエにも伝わってきた。見ているナマエも胸が痛くなる。
「……、アウト2つ、取って、くる、よ」
三橋はそう言った。その言葉を聞いて阿部はようやく三橋の腕を放した。三橋はマウンドへ向かった。ナマエは阿部に近づいて作ってきた氷嚢を阿部の膝に当てた。
「これ持って膝に当てといて。私は防具取るね。」
ナマエは阿部のレガースを外していった。氷嚢を左膝に当てている阿部の手は震えていた。阿部は頭を垂れていて表情は見えない。でも、普段気丈に振る舞っている阿部が今こうして俯いて震えている。その姿を見たけで阿部の胸の内は痛いほどにナマエに伝わってきた。ナマエは阿部の手の上に自分の手を重ねてギュッと握った。
「…三橋君は大丈夫だよ。あの子は泣き虫だけど芯は強いもの。今までだって何度もピンチを乗り越えてきたじゃない。私は三橋君は今回もこの苦難を乗り越えてくれるって信じてるよ。」
ナマエは今度は阿部のプロテクターを外すために中腰になって阿部の腰元の留め具に手をやった。その時、阿部がトンッと頭をナマエの肩に乗せてきた。ナマエは阿部の頭をポンポンッと叩いた。
「チャンス…だと思おう。三橋君は阿部がいなきゃだめっていう依存状態から脱出するべきだったんだよ。きっと、今がその時なんだよ。」
ナマエは阿部のプロテクターを外し、それから左足のスパイクを脱がせた。
「足ベンチにあげようか。あとは挙上の姿勢を取りたいから…エナメルバッグでいっか。阿部君のはこれだよね。1個じゃ足りないね。私のやつも使おう。あともう1個要るか。ね、千代ちゃん、エナメルバッグ借りていい?」
「うん、いいよ。防具片づけるからもらうね。」
篠岡はナマエから阿部のキャッチャー防具を受け取って棚に戻してくれた。ナマエはエナメルバッグを阿部の周囲に設置していく。
「じゃあ、志賀先生、圧迫お願いできますか?」
「はいよ」
ナマエがグラウンドを見るとちょうど試合再開したところだった。
3番矢野の打席では1球目でファーストランナーが二塁盗塁に成功した。一死二・三塁。2~5球目は早いまっすぐを使った結果フォアボールになってしまった。一死満塁。阿部は三橋がフォアボールを出したと知って青ざめていた。4番和田は6球目のシュートを打ってセカンドライナーとなった。栄口が腹でなんとか止めたがバックホームは間に合わないのでファーストへ送球し、二死を稼いだ。しかし、サードランナーはホームに帰って美丞大狭山に7点目が入った。二死三塁。5番宮田はファーストゴロでアウトになり、三死で攻守交代。
ベンチに帰ってきた田島と三橋にモモカンは今の回の配給を訊ねる。ナマエもモモカンの横で話を聞いてノートパソコンにデータを入力していった。モモカンに報告し終わった田島と三橋は配給表を見ながらこれまでの配給を暗記しようとしている。
「記録丸暗記しても使えねーだろ!流れ説明すんよ!」
阿部が田島と三橋に声を掛けた。ナマエもどうにか田島と三橋の力になりたくて一緒に説明を聞くことにした。
『阿部はちょっとは気持ちの切り替えが付いたみたいでよかった』
阿部が田島と三橋に配給の解説をしている様子を見てナマエは一旦安心した。
7回裏、西浦高校の攻撃は1番泉が三振し、一死。2番栄口がフォアボールで出塁し、一死一塁。ここで田島はネクストバッターサークルに入るために抜けなくてはいけなくなった。ナマエは田島が防具を外すのを手伝いながら田島にノートパソコンの画面を見せた。ペイントソフトを使って作った打者毎の打った球の配給表、見送った球の配給表、空振った球の配給表を表示させている。
「おお、こりゃ助かる!」
田島はジッとパソコンの画面を見つめている。ナマエがプロテクターとレガースを外した。
「まずは打席に集中!いってこい!」
ナマエは田島の背中をパンッと叩いた。
「うす!」
田島はネクストバッターサークルに入っていった。3番巣山はバント失敗、ピッチャーフライで二死一塁となった。4番田島は三振。攻守交代だ。
『田島にしては打席に集中できてない感じだったな…』
ナマエはキャッチャー防具を持ってベンチ前で田島を迎えた。帽子を受け取り、田島の頭にメットを被せる。それから防具を付けるのを手伝った。最後にグラブとミットを交換したら準備完了だ。
「田島君」
ナマエは田島の右手を握った。ちょっと冷たい。田島も慣れない捕手に緊張してるんだとナマエは思った。何か力になってやりたいのに、何にも適切な言葉が思い浮かばない。ナマエはせめてどうにかこの気持ちが伝わるようにと田島の手をギューッと握りしめて念を送った。そんなことしかできない。でも田島はそんなナマエに「おう、ありがとな」と言ってグラウンドに向かっていった。
8回表、美丞大狭山高校の攻撃は6番鹿島がライトフライで一死。7番松下はレフトフライで二死。8番倉田はショートゴロ。スライディングでキャッチしたので一塁は間に合わないかと思いきや倉田が塁の前でなぜか立ち止まったのでファーストへ送球してアウトを稼いだ。三死で攻守交代。
田島と三橋は今回もまずモモカンに配給を報告した。ナマエはそれを横で聞いてパソコンにデータ入力していった。でももう8回裏だし、美丞大狭山は途中でうちの美丞大狭山対策に気付いてバッティングを変えてきた。その上、うちは捕手まで交代になって、正直もう相手のバッティングパターンは読めない。
『マネジとして役に立てることって少ないな…』
ナマエは自分の力のなさを無念に思った。この世界に来てからずっと上り調子で順調にやってきたナマエは今初めて壁にぶつかろうとしていた。
8回裏、西浦高校の攻撃は5番花井がセンター前ヒットで無死一塁。6番沖はピッチャー横を抜けるヒットで無死一・二塁。7番西広は三振、一死一・二塁。8番水谷はセカンドゴロで危うくゲッツーかと思いきやランナー2人はセーフだった。でも打者水谷はアウトになった。二死二・三塁。9番三橋はフォアボールで出塁。二死満塁で1番泉の打席になった。センター前ヒットでサードランナー花井がホームに帰って西浦高校に5点目が入った。二死満塁。2番栄口は三振で攻守交代となった。
「1点返したぞ!あと2点、ぜってー裏で返せるから!守んぞ!」
「おおお!」
西浦の円陣の掛け声を聞いてナマエは目頭が熱くなった。
『選手たちはまだ諦めてない!私も諦めないぞ!』
ナマエは右手で目に浮かんだ涙を拭った。
9回の表、美丞大狭山高校の攻撃は9番竹之内はヒットで出塁、無死一塁。1番川島にもヒットを打たれて無死一・二塁。2番石川は送りバントを成功させた。一死二・三塁。3番矢野もレフト脇を抜けるヒットでサードランナがホームに帰って美丞大狭山高校に8点目が入った。一死一・三塁。
『なんか、これ、球種かコースか読まれてれないか…?』
美丞大狭山があまりにもヒットを連続で出すので、阿部の時と同様に今度は田島の配給パターンが研究されて攻略されたのではないかとナマエは思った。モモカンも違和感を覚えたようで大声で田島を呼んだ。
「監督!なんかおかしいっす!ちょっと心の中読まれてるみたいで……。」
タイムを取ってベンチに戻ってきた田島も同じく違和感を覚えているらしい。
「読まれているとしたら私の心だろうね。サイン盗まれたかもしれない。」
「じゃ、サイン変えれば」
「それより、そろそろ田島君が組み立ててみない?もちろん三橋君と協力してね!イヤな球にはちゃんと首振るように言いなさい!」
ナマエはドキッとした。阿部の方を振り返ると阿部も心配そうというか、不安そうというか、なんともいえないビミョーな顔をしていた。
『三橋、田島相手なら首振れるのかな?今の三橋はもう阿部の首振り禁止が当たり前になってしまってるんじゃないのか?』
でもさすがにモモカンと阿部の前で首振り禁止令の話はできない。
『田島は首振り禁止してないんだから、三橋、イヤな球は首振ってくれよ…!』
ナマエは心の中で祈りを捧げるしかできなかった。
4番和田はスリーランホームランを打った。美丞大狭山に11点目が入った。ナマエはガックリと頭を垂れた。それは阿部も同じだった。続く5番宮田では三橋がハッキリとしたボール球を続けて3球投げた。
『!? 三橋…?』
結局4球目もボール球となり、フォアボールで宮田が出塁。一死一塁となった。
『速いまっすぐでもないのにフォアボールって……まさか三橋がコントロール乱してんのか!?』
マウンドの三橋には明らかに動揺した表情をしていた。
「三橋ーっ!ふんばれーっ!」
ナマエはベンチから三橋に声を掛けた。田島やバックを守る野手からも「打たしてけ!」と三橋に掛け声が飛ぶ。
6番鹿島はまっすぐを打ち上げた。セカンドフライでアウトにできるかと思いきや、まさかの栄口がミスでフライを落とす。ランナー・打者ともに進塁し、一死一・二塁。
『今のミスは、まずいぞ…』
三橋はホームラン打たれた動揺でただでさえコントロール乱しているのに、バックが取ってくれないと思ったらますます精神的に追い詰められるに違いない。このまま三橋が崩れてしまったら、もううちは負けたも同然だ。不穏な空気にナマエは背筋が寒くなるのを感じた。しかし、その時、ロジンバッグをマウンドに置いた三橋が顔を上げた。三橋の顔は凛としていた。
「ワンナウトーーー!」
あの三橋が球場に全体に響き渡るほどの大きな声でシャウトした。その声に呆気にとられる西浦の選手たち。ベンチから見守るナマエたちもみな驚いている。
「ワンナウトーーー!」
田島も、三橋に続いて、そう大きな声で叫んだ。野手メンバーも「ワンナウトー!」「おお!ゲッツー、ゲッツー!」「バッチコーイ」と続々と声を出した。
『みんな、持ち直した…!』
三橋のシャウトにどういう思いが込められていたか、そんなの言われなくたって誰だってわかる。ナマエの目から一粒の涙がぽろりと零れ落ちた。
7番松下はバントするも打ち上げた。そのファウルフライを沖がキャッチした。二死一・二塁。8番倉田は1球目内のいいところにまっすぐが決まった。三橋のコントロールも戻ったようだ。マウンドの三橋は凛とした表情をしていた。
『三橋は大丈夫だ…!まだ諦めてない!』
ナマエは頬を伝う一筋の涙を手で拭った。2球目では三橋は首を振っていた。
『三橋、首振ってる…』
せっかくがんばって涙を引っ込めたのに、ナマエはまた目にじわじわと熱いものが込み上げてくるのを感じた。4球目も三橋は首を振っていた。そして4球目のカーブで打者から三振を取った。これで三死目だ。ようやく攻守交代だ。
選手たちはマウンドにいる三橋に駆け寄って「ナイピッチ!」と声を掛けながら三橋のことをもみくちゃにしていた。ナマエは選手たちが戻ってくる前に目に込みあげた涙を腕で拭った。するとケータイのアラーム音が鳴る。阿部のアイシングを外す時間だ。
「阿部、15分経ったけど、感覚はなくなった?」
ナマエは阿部に問いかける。
「まだ感覚あっけど1回外すか。ちょっと温度高かったかもな。」
「今日暑いからかな。次、ちょっと氷増やしてみるか。」
ナマエはバンテージを使って阿部の膝に巻いてる氷嚢を外すのを手伝う。そんな阿部の元に三橋がやってくる。
「……う、打たれた、よ」
「だな」
ナマエは阿部の手から氷嚢を受け取った。氷嚢の中の溶けた氷水を捨てるために手洗い場に向かった。
「打たれたもんはもうしょーがねーよ。まだ試合中だからな。守り終わったと思って気ィ抜くなよ!」
「うん!」
背後から阿部と三橋の会話が聞こえてくるのをナマエは静かに聞いていた。
「気合入れんぞ!外出ろ!」
花井が選手たちに声を掛けた。
「1点ずつ返していくぞ!」
「おお!!」
「ぜってえあきらめんな!」
「おお!!」
「勝つぞ!!」
「おおおーっ」
ナマエは一番後ろのベンチの陰にしゃがみこんだ。もうどうしても涙が堪えきれなかったのだ。両手で顔を覆った。
「ミョウジ、アイシングしてくれ」
阿部がナマエを呼んだ。
「え?でも、まだ外したばっかり…」
「さっき冷やし足りなくてもう感覚戻ってきたから」
「わかった」
ナマエはクーラーボックスのところに行って氷をさっきより多めに氷嚢に詰めた。それから少量の水を加えて空気を抜いて阿部のところに持っていった。
「巻くの手伝ってくれっか」
「うん」
阿部が氷嚢を患部に当てて、ナマエがバンテージで固定していく。その時阿部が小さな声でナマエに話しかけた。
「泣くならここで泣け。オレの方向いてりゃ他のやつには見られねえから。」
どうやらこれは阿部なりの配慮だったらしかった。ナマエはコクッと頷いた。そして阿部の膝にバンテージを巻きながら目に込み上げてくる熱いものをポロポロッと流した。巻き終わる頃にはナマエの気持ちも落ち着いた。
「今の試合状況教えて」
泣いている間、試合を見ていなかったナマエは阿部に訊ねた。
「巣山がシングルヒットを打って無死一塁。田島が打った球が三塁線ギリギリの長打コースで巣山が帰ってオレらに6点目。無死二塁。で、今は花井が打者だ。」
「ありがと」
ナマエは頬の涙のあとを拭ってからグラウンドの方を向いた。5番花井は三振し、一死二塁。6番沖はボールカウント1-1になったところでモモカンがエンドランの指示を出した。美丞大狭山の投手の投球開始とともに田島が塁を蹴った。沖は打ったがセカンドゴロでアウト。二死三塁。次は7番西広の打席だ。
「西広君がんばれええっ」
「西広打てえええ」
「お前なら打てるーっ」
ベンチからは選手もマネジ2人も西広に最大限の声援を送った。応援席からも西広の名前が呼ばれている。1球目、空振り。1ストライク。2球目、空振り。2ストライク。そして3球目、空振り。三球三振。三死。6-11で美丞大狭山高校の勝利が決まった。選手たちはあいさつのためにグラウンドへ駆け出していく。ナマエは阿部に松葉杖を持ってきた。モモカン、志賀先生、阿部、篠岡、ナマエの5人はベンチ前に整列した。
「ゲーム!」
「っしたー!」
審判の掛け声に合わせてお辞儀をした。それから阿部以外の全員で応援席に向かい、再びお辞儀をした。西広は泣き崩れて膝をついた。花井がそんな西広を支え起こす。栄口も応援席から帰る途中で涙を流し始めた。そんな栄口の肩に泉が手を回していた。ナマエはただひたすら呆然としていた。さっき阿部のところで泣かせてもらったからだろうか、もう涙は出なかった。選手たちの様子をただ眺めた。阿部と三橋は肩を寄せ合い、お互いの肩に頭を乗せて抱き合っていた。
『三橋は勝ちたかっただろうな…。阿部がいなくても自分は大丈夫だってことを阿部に証明して、阿部の罪悪感を軽減してやりたかっただろうに。』
でも、モモカンが前に言っていた通り、これは乗り越えなきゃいけない壁なんだろうとナマエは思った。歪な共依存の関係に陥ってしまった西浦バッテリーが乗り越えなきゃいけない壁だ。一方でナマエも壁にぶつかっていた。
『西浦がもっと勝つために、私には他に何ができるだろう』
この世界にやってきてからこれまでとんとん拍子にモノゴトが運んできたナマエにとって、これはこの世界で初めてぶつかる壁だった。ナマエはこの試合で自分の無力さを痛感したのだった。
「はい、そこまで!!」
モモカンが部員全員に声を掛けた。
「泣いて悔しさ晴らすなんてもったいないことしない!その悔しさは自分鍛えるエネルギーだよ!大事に腹の中に溜めておきなさい!さあ、荷物まとめて!さっさと帰って練習するよ!」
「はい!」
ナマエは慌ててバットやヘルメット等の各種道具を専用ケースにしまい始めた。
西浦高校野球部、夏大5回戦敗退。
<END>