「おお振りの世界に異世界トリップ 第25章」
夏合宿2日目の朝、篠岡とナマエは5時半に起きて顔を洗ったり髪を梳かしたりといった身支度を整えてからキッチンに向かった。阿部と三橋の朝食作りを手伝うためだ。阿部と三橋はまだ来ていない。
「とりあえず今日はうちらで食材出しちゃう?」
ナマエは篠岡にそう提案した。
「うーん、そうだね。初日だしね。明日からは阿部君と三橋君にやってもらおう。」
篠岡とナマエはダンボールから今日の献立に必要な食材を次々と取り出していった。そうしているうちに6時になり阿部と三橋がキッチンにやってきた。寝起きそのままやってきましたといった風貌である。
「うーす」
阿部がキッチンに立つ篠岡とナマエを見てあいさつをした。
「おはよー」
「おはよ!2人ともまだ眠そうだな!」
ナマエは阿部と三橋の寝ぼけまなこな顔をみてケケケッと笑った。
「お前らははえーな。ヤル気満々じゃん。」
「あはは、エプロン?2人の分もあるよ」
篠岡は朗らかに笑った。
「はー?いらねーよ。」
「え。エプロンしないの?服汚れるよ?」
ナマエは料理するのにエプロンしないという阿部に忠告した。
「別にいーよ。アンダーの替えなんかたくさん持ってきてるしな。」
「まー、洗えばいいか。三橋君は?エプロンしない?」
「オ、オレ、し…、し、ない」
「そっか。じゃ、始めますか。」
「おう」
まず篠岡が阿部と三橋に今日はあらかじめ食材を用意しておいたが、明日からは阿部と三橋の2人にやってもらうつもりであることを説明した。次にご飯を炊こうと提案する。
「お米研いだことある人ー?」
三橋が控え目に手を挙げた。そんな三橋に篠岡が10合のお米の研ぎ方を教える。
「上手上手!じゃー阿部君は野菜を全部洗おうか。」
篠岡は今度は阿部の指導をしようとした。その時だった。
「あ、三橋は包丁持つなよ。」
「へ?」
「はい?」
篠岡とナマエは素っ頓狂な声をあげた。
「火もだめだな。洗いもんして食器並べとけ。」
「わ、わかった」
素直に返事する三橋。だが、篠岡とナマエは顔を見合わせた。そして篠岡が口を開いた。
「――あ、あの、さ、朝ごはんは2人で作るんだよね?」
「指先に傷作ったら1~2日は投げらんねーからさ」
「包丁持つのは右手だよ。右手は切らないよ。火だって気を付ければ大丈夫じゃない?洗ったり並べたりだけじゃ…――」
"2人で作ってるとは言えない"
そう言葉を続けようとした篠岡を遮って阿部が口を挟んだ。
「こいつにはノートの端にも気ィつけさしてんだよ。何もやんなっつってねーだろうが。」
阿部の言葉の語気の強さにナマエは面食らった。ナマエですらそうなのだから篠岡は……。ナマエが篠岡の方を見ると一瞬驚いたような顔をした後、顔を真っ赤にして涙目で俯いていた。そんな篠岡の姿を見たナマエは黙っていられなくなった。
「阿部!何なのその言い方!」
阿部は泣きそうになっている篠岡と怒っているナマエを見て動揺したのか狼狽えた顔で後ずさった。
「あのね、何もやんなっつってねーってあんたは言うけど、包丁も火も使わないで一緒に料理したって言わないっての!」
「だ、けどよ…」
「まさか阿部はモモカンが何のために2人で作業させようとしてるかわからないわけ?普段の頭脳明晰は阿部君はどこに行ったんですかね~?」
「いや、それはさすがにオレだってわかってんよ!」
「だったらなんで…――!」
険悪な雰囲気になり始めたこの状況を打開したのは意外にも三橋だった。
「オ、オ、オレ、気を付けて、切れる、よっ」
三橋はパッと動き始めて、その手に包丁とにんじんを持った。そんな三橋に「言うこと聞かねえのかてめーは~」とウメボシを食らわせる阿部。篠岡は「包丁持ってるんだから危ないよ」と阿部を止めた。
「皮はピーラーで剥こう。むけたら頭をシッポ落として、それでゆっくりでいいから…。」
篠岡は三橋がにんじんを切るのをサポートする。
「え、みそ汁の具にしてはデカすぎねーか」
阿部がツッコミを入れた。
「…クッ、あははっ、ほんとだね!」
篠岡が笑った。阿部も三橋もナマエもそんな篠岡の姿を見て一安心した。そんな経緯があって阿部は三橋に包丁と火を使わせることに納得してくれたようで、その後の朝食作りは順調に進んだ。
「結構まともな朝食ができあがったじゃん!」
完成した朝食を見てナマエは感激した。他の選手たちも「ちゃんとした食いもんだー」と安心している様子だった。恒例の"うまそう"の儀式をやってからみんなで朝食を食べた。食べ終わった後はマネジ2人はお皿を片づけたり、みんなの洗濯物を回収したりする。
「三橋君!」
ナマエはアンダーの着替え中の三橋に声を掛けた。
「う、お?」
「さっき、ごめんね!…ありがとうね。」
「…さっ、き…?」
三橋は何のことだかわかっていないらしい。
「朝、キッチンで、私と阿部が言い争って雰囲気悪くなってたの、三橋君の行動のおかげで空気が変わったんだよ。それについて感謝してるの。」
「あ、オ、オレ…、なんも…」
「ううん、三橋君はすごいことをしたんだよ!さっすがチームのエースは頼りになるな!」
ナマエは三橋の背中をパンッと叩いた。三橋は"エース"と呼ばれたのが嬉しいみたいで口をひし形に尖らせて頬を赤くして「ウヘヘッ」と笑っていた。それからナマエは阿部のところに向かった。
「阿部!」
「おお?」
「さっき、ごめん!私、カッとなって言い過ぎた!」
「いや、別に何も言い過ぎなことねーよ」
阿部はバツが悪そうな顔をしている。ナマエは阿部に右手を差し出した。
「はい、仲直りの握手」
「おー」
阿部はナマエの右手を握って握手した。ナマエはニッと笑った。
「これで後腐れなしね!」
「もともとそんなことするつもりねーっつの」
阿部は呆れた顔で言った。次にナマエは皿洗いをしている篠岡のそばに寄った。
「千代ちゃん、さっきの…大丈夫だった?」
「あ、ナマエちゃん。大丈夫だよ。心配かけてごめんね。」
「あの…私、事を荒立ててしまってごめんね」
「ううん、むしろ私のために怒ってくれてありがとうね、ナマエちゃん」
「いやいや、カッとなって場の雰囲気を悪くしてしまいました…。千代ちゃんのためのつもりだったけど、結果的に千代ちゃんにも気まずい思いさせちゃったよね。ホントにごめんね。」
「全然いいの!むしろ最初に雰囲気悪くしちゃったは私の方だしさ!お互い様ってことでこれ以上は謝罪はいらないよ!」
篠岡はいつもの屈託のない笑顔を見せた。
「千代ちゃんって竹を割ったような性格してるよねえ」
「あははっ、ナマエちゃんはなんというか度胸があるよねえ。モノをハッキリと言うっていうかさ。」
ナマエは内心『それは私の性格と言うより、たぶん年の功によるものなのよね。だって本当はみんな私より年下だもん。』と思ったが、ナマエが前の世界から異世界トリップしてきたことを篠岡に暴露するわけにはいかないので黙って頷いておいた。
食器を片付け終わって選手たちの洗濯物を回収した頃には父母会の母親たちがやってきた。
「あ、おはようございますー」
篠岡とナマエは父母会の母親たちに頭を下げた。
「はーい、おはよう!」
花井母を筆頭に次々と母親たちが挨拶を返してくれた。
「それ洗濯物?こっちで引き取るね。」
「よろしくおねがいします!」
ナマエは洗濯物が入った袋を花井母に渡した。
「ナマエちゃん、これ今朝の埼玉新聞と昨日の地元TV局の高校野球ニュースの録画DVDね」
ナマエの母親が新聞とDVDを手渡してくれた。
「わ!お母さんありがとう!そう、新聞読みたかったの。」
「ナマエちゃん、私も読みたい!」
篠岡がナマエに近づいてきた。2人は急いで食堂のテーブルに新聞を広げて昨日の他校の試合結果を確認した。
「DVDはあとで管理室で観ようね」
「そうしよー!」
まずは午前練習開始にあたって水撒きとジャグの設置を行わなければならない。篠岡とナマエはグラウンドへと向かった。
水撒きとジャグの設置を終えた後は篠岡とナマエは管理室で昨日の高校野球ニュースの録画DVDをチェックした後、武蔵野第一vs春日部市立の試合のTV中継を見ながらスコア表とできる限り配給表を作っていった。
「武蔵野第一が勝ったねえ」
ナマエは前の世界でアニメおお振りを観て中学時代の榛名が阿部に何をしたのか知っているだけに、榛名が勝ち進んでいるのは正直ビミョーな気分になった。
『今日の榛名は80球以上投げてる…。球数制限やめたのかな。中学時代の関東大会のベスト8は平然と捨てたのにな。やっぱ榛名にとっても高校野球は特別ってことなのかな。』
ナマエはこの事実を知ったら阿部はどんな気持ちになるだろうかと思った。きっと胸中穏やかではいられないはずだ。
「あ、もうこんな時間。そろそろ阿部君と三橋君ロードから戻ってきてるかもね。下降りてみようか。」
篠岡がそう言った。
「ああ、そうだね。行ってみようか。」
管理室を出て階段を下りてると阿部が玄関口のところに座っているのが見えた。
「おっ、阿部帰ってきてるじゃん」
ナマエが阿部の背中に向かって声を掛けた。
「ア、アレ?」
振り返った阿部は篠岡とナマエの姿を視認して"意外"という顔をしている。
「あーお帰りー」
篠岡も阿部に声を掛けた。
「三橋は?アンダー替えに行ったんだけど。」
「あら、ほんと?私たち管理室にいたんけど気付かなかったね?」
篠岡がナマエの方を振り返ってそう言った。ナマエは「だね」と答えた。
「6回戦のスコア取ってた?」
「お、うん。7回からだけど。」
「見して」
阿部は篠岡から武蔵野第一vs春日部市立の試合のスコア表を受け取った。それを眺める阿部の顔はみるみる険しくなっていった。篠岡とナマエはそんな阿部の様子を見て顔を見合わせた。篠岡はナマエに小声で「見せたらまずかったかな?」と訊いてきた。ナマエが返答に困っていると、アンダーを替え終わった三橋が階段から降りてくるのが見えた。
「あ、三橋君お帰りー!」
ナマエは三橋に向かってブンブンと手を振った。
「お…う、ん、ただいま」
篠岡は「三橋君の意見も訊いてみよう」と言って三橋に駆け寄った。
「三橋君、今阿部君にね、武蔵野第一vs春日部市立の試合のスコアを見せてって言われて見せたの。まずかったかな?」
篠岡は小声で三橋にそう訊ねた。
「ま、まずく、ない………?」
ナマエは『それはまずいのか、まずくないのかどっちなんだ?』と内心思ったが、篠岡は後者だと受け取ったらしく「そっか」と言ってニコッと笑った。まあ、ここでまずいと答えてしまったら、見せた篠岡がまずいことをしたということになってしまうのでナマエはそのまま何もツッコまないことにした。
「明日の朝ごはんのメニューはもう決めた?」
ナマエは話を逸らそうと思ってそう切り出した。
「き、めて、ない」
「じゃ、今決めよっか。阿部ー!明日の朝ごはんのメニュー決めよー!」
ナマエは阿部の背中に声を掛けた。
「おー」
「じゃあ、私は本取りに行ってくるよ」
篠岡が階段を上り始めた。
「あと、阿部の膝のアイシング用の氷嚢作らなきゃね」
ナマエも篠岡の後を追いかけた。篠岡とナマエがレシピ本と氷嚢を作り終わって戻ってくると阿部と三橋が身長計の近くで会話をしていた。
「武蔵野って榛名のワンマンチームだよな。でも次たぶんARCだかんな。さすがにもー通用しねえよ。もしかしてあいつ明日投げねーかもしんねーぞ。」
阿部が三橋にそう言っているのが聞こえた。
『あいつって榛名のことだよな…やっぱ気になるんだ』
ナマエは大事な会話をしている阿部と三橋の邪魔をしないように気配を消してそばで会話が終わるまで待とうと思った。
「……、…もし、阿部君が、いたら、通用…」
三橋が途切れ途切れにそう言った。三橋と同じクラスになってもう3ヶ月以上経っているナマエは三橋語がある程度わかる。三橋が言わんとしてることを悟ったナマエはサッと青ざめた。
『それは言ったらまずいって…!』
ナマエがそう思ったのも束の間、阿部も三橋が何を言ったか一拍置いて理解したようで「はあ!?」と大声で怒鳴った。
「おめえは……っとさァ、きもちわりい仮定をすんじゃねェよ」
阿部は元々声が大きい方だが、そんな普段の声量の比ではないくらいのどデカい声で三橋に詰め寄った。三橋は青ざめて硬直している。
「阿部!氷嚢持ってきた!座って!膝に当てとこ!」
ナマエは慌てて2人の間に割って入った。
「レシピ本も持ってきたよー!さー決めちゃお!何食べたい?混ぜご飯はどうかな?」
篠岡も明るい声で2人に声を掛けて険悪な雰囲気をどうにかしようとしている。
「…あー」
阿部はナマエから氷嚢を受け取って座り込んだ。左足の練習着のズボンを捲り上げて膝に氷嚢を当てる。
「動かすだけで熱持つのな。じっとしてっとジワジワくんだ。」
「そーなんだ。無理しちゃダメだよ?」
篠岡は心配そうな顔で阿部にそう言った。
「しねーよ、あんがとな」
阿部は篠岡にお礼を言った。
「じゃ、三橋君、主食決めよう」
ナマエは三橋にレシピ本を渡した。三橋はレシピ本の中から料理を選んでいる。阿部はそんな三橋を睨むような鋭い目線で見ていた。三橋は阿部のその目線に気付いて怯えている。
『今のは阿部が怒るのも仕方ないよなー…』
普段だったら三橋を庇って阿部を叱るナマエだが、さすがに今回は阿部に同情せざるを得なかった。
なんとか翌朝のレシピが決まった。それが終わる頃には昼食の時間になった。恒例の"うまそう"の儀式をやってからみんなで食べ始める。いつものことだが男子高校生はよく食べるし、食べるのが早い。何度もおかわりをした上で篠岡とナマエが食べ終わらないうちに全ての食事を終えて食休みの昼寝に入った。篠岡とナマエは食べ終わったら、自分たちのお皿は自分たちで洗う。
「さっきはヒヤヒヤしたね」
篠岡は洗い終わった食器を拭きながらナマエにそう言った。
「うん…、でもあれは三橋君が無神経すぎたんじゃないかな…。さすがの私も庇えなかったよ。」
ナマエは苦笑した。
「やっぱり阿部君は榛名さんのこと意識しちゃうんだねえ」
「そりゃ、そーだよね。胸中穏やかでいられないと思うよ。」
「やっぱスコア表見せたらまずかったかな…」
「本人が見せろって言うんだから見せないわけにいかないよ。千代ちゃんが気にすることじゃないよ。」
ナマエは篠岡を励ました。
午後はプールの使用許可が下りたのでみんなで水泳をすることになった。マネジの2人はストップウォッチと笛を首から下げてタイム計測を行う。選手はAチームとBチームに分かれてタイムを競うので、マネジの2人もAチーム担当とBチーム担当に分かれて交代しながら対応した。ナマエはマネジとして仕事をこなしながらみんなの水泳の様子を眺めていた。
『三橋って鈍くさそうに見えるけどやっぱ運動はできるんだよなぁ。水泳も田島に次いでタイム良いし。』
ナマエは1位と2位になった田島と三橋が背比べをしている姿を見て『なにあのおチビちゃんたち、かわいい~』っと内心キュンキュンしていた。しかし、次の瞬間田島が三橋の海パンを下した。ナマエはバッと顔を背けた。幸いなことに"モノ"は見えなかった。
「ここは男子校じゃねっつってんだろっっ」
泉が田島を叱ってる声が聞こえる。
「あついあついマジであついから~っ」
ナマエはまだ田島たちの方は怖くて見れないので何が起きているのかはわからないが、田島が熱がっている声が聞こえてきた。篠岡を見ると全然田島たちのことは見ていなかったようで、何が起きたか全く気付いていない様子だった。
「う~ひ~浮かれすぎました~」
「ホントに反省しろよ!」
田島は泉に叱られて反省しているようだった。
『泉君ってホントに頼りになるわァ』
ナマエが内心泉に感謝しているとタッタッと足音がした。田島と三橋がプールサイドを走っている。
『ということはもうあっちを向いても大丈夫だ』
そう思ってナマエが先ほど田島が三橋の海パンをずり下げた場所に目をやると泉と目が合った。泉は立ち上がってナマエの方にやってきた。
「ミョウジ、マジでごめん!!」
泉がナマエに頭を下げて詫びた。
「や、大丈夫!見てないから!ホントに見てないよ!」
ナマエは必死に見てないことをアピールした。
「でもやっぱイヤだろ?こーゆーの。」
「うん…、まあ、イヤだね、さすがの私でもちょっと…ね。それに三橋君も女子に見られたくないでしょーし。」
「マジでごめんな。今後はオレがしっかり田島の手綱を握っておくからさ。」
「あははっ、ありがと!泉君はホント頼もしいね~!」
泉のおかげでナマエは嫌な心臓のドキドキが収まってきて平静さを取り戻すことができた。
水泳が終わった後は夕食の時間を迎えた。父母会の母親たちが作ってくれたおいしい夕食を食べて元気になった。夕食の後は勉強会の時間だ。今日もナマエは泉に勉強を教えて過ごした。20時にはマネジの2人はお風呂に入った。その間は選手たちは夜練中だ。そして21時には夜練を終えた選手たちが帰ってくるので、マネジ2人は選手たちにおにぎりを配った。おにぎりを載せていたトレーを洗い終わたら、21時半からミーティングだ。モモカンから明日は準決勝の試合を部員全員で観戦に行くとの発表があった。
「どことやっても勝てるようにそれぞれにプランを立ててもらうからのんべんだらりと観ないようにね!」
「はいっ!」
「じゃあ、各自日誌つけて今日はおしまい。花井君あとよろしくね。」
「はい!おつかれさんでした!」
部員全員で「ざーっした」とモモカンにあいさつをしてから日誌を書き始める。
『明日はARCと武蔵野第一の試合観戦すんのか~…。阿部は"あいつ投げねーかも"っていってたけど、今日の春日部市立との試合を見るにたぶん榛名はもう中学時代とは違う。今回は真剣に勝負に挑むんだろう。そんな榛名を見たら、阿部はどんな気持ちになるんだろう。大丈夫かな?』
ナマエは日誌を書いている阿部をこっそり見つめた…つもりだったが阿部がこっちを向いた。目が合う。
「なに?」
「ハッ、いや、なんでもないヨ」
「なんでもないこたねーだろ、人の顔ジロジロ見てただろ」
阿部がナマエの隣に座ってきた。
「なんだよ、言ってみろ」
「あー…明日の試合観戦さ、阿部の隣で見ていい?解説してもらいたい。」
ナマエは本心としては阿部のことが心配だから側にいたいと思っただけなのだが、咄嗟に"解説をしてもらいたい"とそれっぽい理由を思い付いた。
「おー、いいぜ」
阿部は快諾してくれた。
「ありがと。よろしくね!」
ナマエは日誌を書き終わったので阿部に「じゃ、おやすみ!」と声を掛けてから、篠岡と一緒に女子の宿泊部屋に戻った。
「やっぱナマエちゃんは阿部君と仲良いね」
布団を敷きながら篠岡がナマエにそう言った。
「うん?まあ、そうかも?」
ナマエは今の阿部と自分の距離感を思い返してみた。
『たしかに今はもう仲が良いって言ってもいいレベルだよな?』
ナマエはそう思った。それと同時に何か違和感を覚えた。
『もしかしたら千代ちゃんは私が"阿部"と仲良いのが気になるのかな?それとも阿部に限った話じゃなくて、選手たちと篠岡の間にまだ距離があることを気にしているってことか?』
ナマエは夏大の開会式の日のことを思い出した。あの時、篠岡は"気になる人はいるけど、それが恋なのかどうかわからない"という状況だというような話をしていた。あれからもう3週間が経とうとしている。
『もしかして千代ちゃんは阿部のことを好きになった…?』
ナマエはその可能性を検討した。少し胸がザワザワした。ナマエはなんで胸がザワつくのか自分でもよくわからなかった。
『私、阿部のことは好きなキャラクターの内の1人だけど、恋愛感情はないよな?もし千代ちゃんが阿部を好きでも別にいいはずだよな?』
でもナマエはもし阿部と篠岡が両想いになって付き合い始めたりしたらと想像すると…なんだか胸がモヤモヤしてしまった。阿部には"恋愛なんか興味ない、野球のことしか頭にない"っていう野球バカでいてほしいと感じた。
『どうしよう、もし千代ちゃんから阿部への恋心を打ち明けられても、私応援できないかも…』
篠岡は大事な友達でマネジ仲間なのにその恋を応援できない自分はヒドいやつだと思った。ナマエがそんな罪悪感に苛まれているとモモカンから声を掛けられた。
「ナマエちゃん!手止まってるよ!明日も早いんだから、早く布団敷いて寝る!」
「あっ、すいません」
ナマエは慌てて自分の布団を敷いた。
「準備できました。じゃあ、電気消しまーす!」
暗くなった部屋で布団に入ったナマエは先ほどの続きを考えた。
『まだ千代ちゃんからそう打ち明けられたわけじゃない。頭を悩ませるのはまだ早い。』
ナマエは一旦この件は自分の中で保留にすることにした。明日も朝食作りがあるから朝早く起きなきゃいけない。ナマエは目を閉じて眠りに就いた。
西浦高校野球部、夏合宿2日目終了。
<END>