「おお振りの世界に異世界トリップ 第30章」
8月3日、その日は新人戦の抽選会が行われる日だ。今回は主将の花井が1人で抽選会の会場に行くことになっている。朝9時の練習開始前のミーティングでモモカンにあいさつをした花井はその後練習には参加せずにそのまま抽選会会場に向かって自転車に乗って去っていった。
「どこと当たるかな?」
ナマエは篠岡に話しかけた。
「どこだろね!ドキドキするねっ!」
「うん、もうすっごい胸がバクバクしてる。また初っ端から強いところだったらどーしよ!?」
ナマエは自分の胸の心臓がある辺りを両手でぎゅーっと握った。
「ああ、同じ南部地区に榛名さんがいる武蔵野第一とかあるよね」
篠岡は右手の人差し指を顎に当てながら「あと他に強い学校は…」といくつか南部地区の強豪校の名前を挙げた。
「ぐ…っ、そうなんだよね…。花井そういうところ引きそうだよなァ。」
「アハハ!でも強豪校の方がデータは集めやすいし、マネジとしてはやりやすいかもよ。」
篠岡はそう言って笑った。緊張しているナマエとは裏腹に篠岡はとてもリラックスしている様子だ。
「あー、そっか。それはそうだね!千代ちゃんってすごいポジティブだな~!」
ナマエはそんな篠岡に感心した。篠岡のアドバイスのおかげでナマエは少し緊張がほぐれたのだった。
11時半すぎになると花井が抽選会から帰ってきた。
「ちわっ」
花井はグラウンドに向かってあいさつをしてからフェンスをくぐって裏グラに入ってくる。
「あ、花井!おかえり!」
ベンチで傷んだボールの修理をしていたナマエはすぐに花井に気が付いた。グラウンドでバッティング練習をしている選手たちも、おそらく今か今かと花井の帰りを待っていたのだろう、すぐに花井に気が付いて「花井だ!」「帰ってきた!」「おかえりー」と言って声を掛けていた。
「うおーし、クジひいてきたぞ!いったん集まってくれ!」
花井はグラウンドにいる選手たちに向かって大声で召集の号令をかけた。
「どこんなったー!」
「また強ェとこ引いてねーだろうな!」
巣山と泉がそう言いながら一番に花井のもとへとやってきた。それに続いて他の選手たちも集まってきた。モモカンとマネジ2人も併せた全員で花井の周りを取り囲むようにして立つ。そして花井がゆっくりと口を開いた。
「えー、南部地区新人戦!1回戦は8月17日第1試合、朝霞市営球場で…相手は戸田市立だ!」
ナマエは花井の言葉を一言も聞き漏らさないように注意深く耳を傾けながらノートに情報をメモした。5月から埼玉新聞や地元TV局の夕方のニュースを見てこつこつ高校野球の情報を収集してきたナマエは当然戸田市立高校のことは知っている。この学校は特に強豪校というわけではない。油断は禁物だということはわかっているが正直ナマエはほっと胸を撫でおろした。
「新人戦に勝てば秋大シードとれる。秋大は春大シード、春大は夏大シードと繋がってるから新人戦がオレらの2年目のスタートなわけだ!全部勝つかんな!」
花井がそう言って他の選手たちにハッパをかけると選手たちは「おおっ!」と力強く返事をした。やる気満々な西浦高校野球部の選手たちを見ていたナマエは胸がジーンとした。
『うんうん、頑張ろう。全部勝とう!私もマネジとして一緒に戦うぞ!』
ナマエがそうして気持ちを新たにしているとモモカンが前に出てきて口を開いた。
「うん、新人戦も甲子園へ繋がっていることを意識してね!…ところでみんなは甲子園へ行ったことあるの?」
モモカンの質問に対して水谷は「ないです」と回答した。
「スゲーガキの頃ですけど、あります」
巣山が手を挙げながらそう答えた。
「オレはシニアで連れてってもらいました」
栄口も口を開いた。
「オレもあります。家族で何度か。」
これを答えたのは阿部だ。そして田島も「ありまっす!」と言っている。ナマエは西浦高校に来るまで野球とは無縁の人生だったので当然甲子園に行ったことはない。ナマエは篠岡を見た。ナマエの目線に気付いた篠岡は首を横に振った。篠岡もないらしい。
「他の人は行ったことないのね?」
モモカンが答えていない他の選手に訊ねる。すると泉や西広が「ないッス」「はい」と答えた。沖も首を横に振っている。三橋は阿部と田島が甲子園に行ったことがあると聞いてからがっくりと頭を垂れていた。
『仲のいい田島や阿部は甲子園に行ったあるのに、自分だけないっていうことに引け目を感じているのかな?』
ナマエは三橋の様子を見ながらそんなことを考えていた。
「見たことないものをイメージするのは難しいから、やっぱ1回見といてもらいたいんだけど、そうは言ってもお金のかかることだからみんなの親御さんにお願いしたら…」
モモカンがそう言いかけると選手たちは「!?」と反応して顔を上げた。
「甲子園観戦1泊(+車中2泊)旅行させてもらえることになりました!」
モモカンは胸の前で両手を組んでキャッとハートを飛ばしながらそう言い放った。
「…!!!」
選手たちはあまりの驚きで声にならない歓声をあげていた。ナマエもまさか甲子園観戦旅行に行かせてもらえるだなんて全く予想していなかったので驚いて口を両手で覆った。
「新人戦前にみんなで甲子園見に行くよ!」
モモカンが大きな声でそう言うと選手たちは「やったー!」と言いながら帽子を宙へと飛ばした。田島は三橋の背中に乗り上げるようにしてバックハグしているし、あの阿部も満面の笑顔で三橋の顔を見て「やったな!」と声を掛けていた。三橋は顔を真っ赤にして大きく口を開いて喜んでいた。ナマエは篠岡とハイタッチをして喜びを分かち合った。選手たちも篠岡もナマエもあまりの喜びにしばらくの間興奮が収まらなかった。
少し時間をおいて選手たちが落ち着いてくるとモモカンは甲子園観戦旅行の詳細を説明し始めた。
「旅行の日程は8月8日~8月11日です。8日は夜に大宮駅に集合して大阪駅行きの夜行バスに乗ります。翌朝9日に大阪駅に着いたら電車で甲子園に移動して午前中は試合観戦、午後は大阪に戻って貸しグラウンドで練習です。9日の夜はビジネスホテルに泊まって、そして10日はなんとあの強豪・桃李高校で合同練習に参加させてもらうよ!」
「桃李高校!?」
泉が口をあんぐりを開けながらそう言った。阿部も驚いた顔をしているし、田島は目をキラキラと輝かせている。
「この合同練習には桃李高校以外にも波里高校と泰然高校も参加します」
モモカンが続けてそう言うと「うおお!!」と言う歓声が選手たちからあがった。
「え、やば、すごくない!?」
ナマエは隣の篠岡にコソッと話しかけた。この世界にやって来る前は高校野球とは無縁の人生だったナマエだが、この世界でマネジになってからは毎日コツコツと高校野球の情報を収集してきた。桃李・波里・泰然が甲子園出場経験のある超がつくほどの強豪校であることはもう知っていた。
「うん、やばい、すごいすごい!!」
あの篠岡もあまりの興奮で語彙力が無くなってしまっている。
「この3校は毎年この時期に合同練習を行っているの。今年はそこにうちも交ぜてもらうことになりました。合同練習中はこの3校と練習試合をさせてもらえるし、強豪校が普段どんな練習をこなしているかも教えてもらえる。みんなはしっかり見て、体感して、その強さの秘訣を盗んでくるんだよ!」
モモカンがそう言うと選手たちは爛々とした目付きで「はいっ!」と元気よく返事をした。
「合同練習の後は大阪駅から大宮駅行きの夜行バスに乗って帰ってきます。11日の朝に大宮駅に到着したら解散ね。この日は練習はないので家でゆっくり休んでください。翌日12日からはまた練習を再開するよ!旅行の詳細についてはあとでマネジに旅のしおりを作ってもらうつもりなので、配られたらよく目を通しておいてね。さて、現時点で何か質問がある人はいる?」
モモカンがそう問いかけると選手たちからは元気よく「ないでーす」という返答があった。
「じゃあ、もう11時45分なのでいつもよりちょっと早いけど午前の練習はこれで終わりにしましょう。ちゃんとダウンしてから休憩に入ってね。午後の練習はいつも通り14時からです。じゃあ、またあとで。」
「あーっした!」
選手たちはモモカンに向かってバッと頭を下げた。そしてダウンのためにグラウンドへと駆け出していった。
「ナマエちゃん、千代ちゃん、ちょっといい?」
モモカンがマネジの2人を呼んだ。
「「はいっ」」
「さっきも言ったけどマネジには甲子園観戦旅行のしおりを作成してほしいの。でも当然だけど普段からやってるマネジのお仕事もきっちりこなしてほしい。なのでどちらか1人がしおり作成で、もう1人には通常のマネジ業務を行ってもらいたいんだけど、どっちがどっちをやる?」
モモカンの言葉を聞いてナマエは篠岡と顔を見合わせた。
「やっぱりパソコンが得意なナマエちゃんの方がしおり作成に向いてると思うんだけどお願いしてもいい?」
篠岡がそう言った。
「うん、いいよ。私もそれがいいと思ってた。」
ナマエはそう答えた。
「じゃあ、ナマエちゃんがしおり作成ね。夜行バスやホテルの予約は志賀先生がやってくれたからバスの発着の日時やホテルの場所は志賀先生に訊いてください。それをもとに何時にどこに集合するか、どんなスケジュールで過ごすかも考えてもらえる?」
「わかりました」
「じゃ、今日の午後からナマエちゃんは数学準備室で志賀先生に話を聞きながらしおり作成を進めてください。私に何か質問があったらケータイに電話かけてくれてもいいよ。草案を作り終わったら印刷して私のところに持ってきて。」
「はいっ!」
ナマエは元気よく返事をした。
「千代ちゃんはいつも2人でこなしてるマネジ業務をしばらくは1人でやることになるから大変だろうけどしっかり頼むよ!」
「もちろんです!」
篠岡もキリッと凛々しい顔をしている。
「あ、監督、しおりの作成期日はいつまでですか?」
ナマエはモモカンに質問をした。
「そうねぇ、8日には出発だから遅くても7日には選手たちに配布したい。6日は草案の指摘修正作業があると考えると遅くても5日には草案を作り終えて見せてほしいかな。」
「じゃあ、まだ2日と半日あるので16時のおにぎり作りだけは千代ちゃんと一緒にやってもいいですか?1人で21個のおにぎり作るのはかなり大変なので。」
「うん、わかった。いいよ。でも5日までのしおり作成はマストだからね。万が一にも間に合わないなんてことがないようにしてね!」
「はい、わかってます!絶対に期日は守ります。」
ナマエは右手をグッと握って拳をモモカンに見せた。モモカンは「はい、よろしい」と言ってニコッと笑った。
「じゃあ、また午後の練習で会いましょう。」
「「はいっ、あーっした!」」
篠岡とナマエはモモカンに頭を下げた。
昼食を食べ終わり、13時からの勉強会を終えたナマエは裏グラに戻る選手たちと篠岡に別れを告げて志賀先生と一緒に数学準備室へと向かった。
「志賀先生、まずは行き帰りの夜行バスの発着地と出発・到着の予定時刻を教えてください。あと9日の夜に泊まるホテルの場所も。」
ナマエは数学準備室で自分のノートパソコンを開きながらそう言った。
「はいよー、ちょっと待ってね。予約確認ページを印刷したやつがあるんだ。どれどれ。」
志賀先生は机の上の資料を漁った。
「あった。はい、これはミョウジにあげるよ。」
「ありがとうございます」
志賀先生から資料を受け取ったナマエはさっそく予約内容を確認した。
『えーっと、行きのバスは大宮駅西口のバス乗り場から21時20分出発予定か。じゃあ、21時くらいにはバスが到着するかな。余裕をもって20時半に大宮駅西口に集合にしよう。駅の改札口に野球部14人(部員12名+モモカン+志賀先生)も集まったら迷惑だよなー。どっか大人数で待ち合わせしても迷惑にならない広い場所ないかな~?』
ナマエはインターネットブラウザを開いて大宮駅西口のおすすめの待ち合わせスポットを検索した。
『お、大宮駅西口のペデストリアンデッキが良さそう。目印になる大きなモニュメントもあるし、近くには20人が座れる石材ベンチがある。ここにしよっと!』
ナマエはWEBサイトからモニュメントの画像を拝借し、ワードファイルに貼り付けた。
『到着は大阪駅桜橋口に7時20分か。ここから甲子園球場に行くなら…――』
ナマエはインターネットで乗換案内を開いて経路を調べた。
『なるほど、阪神本線大阪梅田駅まで歩いたらそこからは電車で直通で行けるのね。特急も急行も停まるんだ。電車の乗車時間は15~20分程度か。徒歩移動の時間も含めて第1試合が開始する8時くらいには甲子園球場に到着できそうだな。』
こうしてインターネットで調べ物をしながらナマエはワードファイルに甲子園観戦旅行のスケジュールを書き上げていった。
『よし、一部わからないところはあるけどそれはあとでモモカンに確認をとるとして一旦スケジュール作成は終わりっ!次は持ち物一覧の作成だな。選手に持ってきてもらうものは…練習着上下とアンダーとストッキングと帽子とスパイクは必須でしょ。それから移動中は制服(もどき)を着るからワイシャツとズボン。練習中に汗拭くタオルも必要だし、寝巻のジャージも必要だ。あ、あと忘れちゃいけないのが下着ね!えーっと、それから…―――』
ナマエは旅行中のスケジュールを頭の中でイメージしながら必要な物をワードファイルにリストアップしていった。ここまでやり終わったところで時計を見るともうまもなく16時になろうとしていた。もうおにぎりを作成する時間だ。ナマエはしおり作りは一旦中断することにした。
「志賀先生、私はおにぎり作りのために一旦裏グラに戻ります。作り終わったら帰ってきますね。」
「うん、わかった。行ってらっしゃい。」
ナマエは裏グラへと向かって自転車を漕いだ。
「千代ちゃーん!おにぎり作りのために参上つかまつった!」
「ナマエちゃん!おにぎり手伝いに来てくれてありがとうね!しおり作りは順調?私、ドリンク作成のために何回か数学準備室行ったんだけどナマエちゃんすっごい集中しながら作業してたよね。」
「ああ、うん、やり始めると結構楽しくて熱中してた」
篠岡とナマエはさっそくおにぎり作りを開始した。ついでにナマエは篠岡に「他にはどんな持ち物が必要だと思う?」と相談してみた。
「選手とは別でマネジ向けの持ち物一覧があると嬉しいな。マネジはサポーターとかスポドリの粉とか応急処置の道具とか選手は持っていかないものも必要だからね。」
「おお、それはそうだね。あとはいつも練習試合の時に持っていく道具…バットとかメットとかも忘れずに持っていかなきゃいけないし、それらもちゃんとリストアップしておくか。」
「それすごい助かる!」
「千代ちゃん、アドバイスありがとー!」
おにぎり作りが終わったら、ナマエはモモカンのところに行ってスケジュールを作成する上でわからなかった部分を質問することにした。具体的には3日目の桃李高校での合同練習のスケジュールのことだ。その日は朝食・昼食・夕食はどうするのかとか桃李高校への行きと帰りはどんな交通手段を使うのかといったことについて、志賀先生は把握していないらしくモモカンに質問するようにと促されたのだった。
「ああ、その日の食事は全部桃李高校側が用意してくれるのよ」
モモカンが答えた。
「え!朝も昼も夜もですか!?」
「そう。だから朝は5時過ぎにはホテルを出発して6時に桃李高校に到着する予定。行きの移動手段は電車と徒歩ね。」
「わあ、朝早いですね」
ナマエはモモカンに言われたことをノートにメモした。
「帰りは姫路駅までは桃李高校野球部のバスを貸し出してもらえることになったよ」
「おー、それはすごく助かりますね。バスなら30分くらいで姫路駅に着きますかね。」
「そうね、17時には練習を切り上げて片付けをするって言ってたから、17時半~18時半が夕食って感じかな」
「姫路駅から大阪駅までは電車移動ですか?」
「うん」
「ふむふむ…わかりました!ありがとうございます!」
ナマエはモモカンにお辞儀をし、しおり作りを再開するために数学準備室へと自転車を走らせた。数学準備室に到着したらさっそくノートパソコンを開いてモモカンから教えてもらったことをスケジュールに反映させた。それから篠岡からのアドバイスに従い、持ち物一覧は選手向けとマネジ向けで分けることにした。また、持っていく練習道具一覧も追加した。それを書き終える頃には時刻は19時になろうとしていた。選手たちは20時半まで練習があるが、マネジの2人は19時が定時だ。
「志賀先生、私は今日はこの辺で終わりにして上がります」
「おお、もう19時か。先生も今日はこの辺で仕事切り上げて帰るよ。ミョウジも気を付けて帰るんだぞ。」
「はーい!明日もよろしくお願いします。」
ナマエは志賀先生に頭を下げてから数学準備室を出た。そして裏グラへ向かって自転車を漕いだ。裏グラに到着すると篠岡が蚊取り線香を取り替えているところだった。
「ナマエちゃん、おかえり。今日も1日終わったねー。着替えて帰ろっか。」
「うん!」
篠岡とナマエはいつも通り倉庫で着替えを行った後、自転車に乗って各々の家に向かい帰宅したのだった。
<END>