「おお振りの世界に異世界トリップ 第52章」
試験前休み2日目、ナマエが普段よりゆっくり登校すると既に三橋が到着していて自席で眠り込んでいた。ナマエは寝てる三橋のことはそっとしておこうと思って、自席に着いて埼玉新聞のスポーツ欄をチェックして秋大県大会の情報を収集した。そうしているうちに田島と泉が登校してきた。
「泉君、田島君、おはよう!」
「はよっす!」
「おっす!ところで三橋はどーしたん?」
田島が机でグッタリとしている三橋を見てナマエに訊ねた。
「わかんない。私が来た時にはもうあんな状態だった。」
「おーい、三橋。どーした?」
泉が三橋に話しかけた。
「なんかヘトヘトだな?」
田島も三橋に声を掛ける。
「…ん、走って、きた」
顔を上げた三橋はそう言った。
「あーいい距離かもな」
田島はそう言って笑った。
「結構、早く着いたから、寝てた…」
「いーな、オレもやろうかな」
泉がそう言うと田島が「泉んちは遠くね?授業中寝るぞ。」と注意した。
「でもなー、練習ねえと体重くなんだろ?昼練だけじゃ足んねーよ。」
「実際体重増えるしな」
田島がそう言った。ナマエは男子3人の会話を聞きながら『運動部男子はすごいな』と思っていた。運動音痴のナマエは"運動しないと体が重くなる"とか"体がなまる"とか"走り込みしたい"とか一切思ったことがない。
「でも部活ない方が投げ込みできんじゃん?」
田島は三橋にそう言った。三橋はドキッとなって跳ね上がった。
「なんだよ?」
「…し、ちゃ、いけない、んだ」
三橋がそう言うと田島は三橋の方をグッと顔を近づけた。
「オレは、した方がいいと思うぞ」
田島がそう言うと、田島と三橋はジッと見つめ合った。
「お前がしたいならした方がいいに決まってる。モモカンも阿部もどうしたって一般論でしか考えられないだろ。オレがキャッチャーやってやろうか?」
田島がそう言うと三橋はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「待て待て待て!」
ナマエは田島を止めに入った。
「なんだよ?」
「田島君が言うことも一理あるのかもしれない。けど、阿部だって三橋君のことすっごい大事に思ってるんだよ。そんな阿部のこと無視して勝手に田島君と投げ込みなんてしたらきっと阿部は傷付くし、バッテリーの信頼関係にヒビが入るかもしれないよ。やりたいならまずは阿部に相談してみようよ。阿部はたしかに三橋君に過保護なところがあるし最初は抵抗するかもしれないけど、あいつは意外と話せばわかるやつだよ!」
ナマエは必死に田島を説得した。ちょうどその時阿部が9組にスタスタと入ってきた。
「三橋」
阿部がそう呼ぶと三橋はビクーッとなった。
「3限終わったらメインの弁当も食っちゃえよ。なるべく長く昼練の時間とって投球練習まで持っていこう」
阿部がそう言うと三橋は嬉しそうな顔になって「うんっ」と返事した。ナマエは田島に「ホラ、阿部もちゃんと考えてくれてるでしょ」と言った。田島は「おお、余計なお世話だったか」と言った。
「は?オレが何?」
ナマエの発言を聞いた阿部がそう訊ねてきた。
「なんでもないよ~」
ナマエはそう言って誤魔化しといた。
「オレらもそうしねぇ?」
泉が田島に言った。田島は「おお」と返事をした。泉は「他の野球部員にも声を掛けようぜ」とケータイを開いた。
「午後は?やんねえ?」
田島がそう訊ねた。
「やりてーけどグラウンドは帰れって言われるだろ?」
阿部がそう言うと田島が「うち来るか?4市大会までにフォーム固めちゃいたいだろ?」と提案してきた。それを聞いた阿部は驚いた顔をした。
「お前んちにもブルペンあんの?んなわけねーよな?だって19mの直線て…――」
「とれる!できるよ!」
三橋は阿部の言葉を遮ってガタッと立ち上がった。たしかに田島の家に行ったことがある三橋とナマエは田島家の敷地の広さを知っている。田島家なら19mの直線も用意できるだろう。
「ね?」
三橋は田島の方を振り返ってそう訊ねた。
「おう、車庫前そんくらいあるよ。プレートはなんか工夫しよう。ベースは1個借りていくか。」
「マジか。でかい家だとは聞いてたけどよ。」
泉がそう言った。野球部員が放課後の田島家での自主練について盛り上がっていると浜田が「勉強は?」と釘を刺した。
「暗くなったら球捕れねーから5時半には切り上げて6時に解散な」
阿部がそう言った。三橋は「わ、わかった!」と言って頷いた。
「ミョウジはどーする?来るか?」
田島がナマエに訊ねた。
「私が行っても何の役にも立てなくない?」
ナマエはそう言った。
「うちで勉強してりゃーいいじゃん。ミョウジが顔出してくれたらうちの家族みんな喜ぶしさ。」
「んー、じゃあついていこうかな」
ナマエはそう答えた。
放課後、男子たちは学校で野球の練習着に着替えをしてから田島家へと向かった。ちなみにナマエは制服(もどき)のままである。初めて田島の家にやってきた泉は「ひゃー、ひろ~!」と言って田島家の敷地の広さに驚いていた。
「ただいま!」
田島は縁側の窓を開けて田島祖父にあいさつをした。
「おお?悠、今日はえらく早いな。」
「テスト近くて部活ないんだ。ウチで練習しようと思って友達連れてきた!」
「あー、どーも、どーも。何人来たんだ?」
「4人!泉コースケ、センター。それから阿部タカヤ、キャッチャー。」
泉と阿部は「ちわっ」とあいさつをした。
「レン、今日は練習なのか。ナマエはマネジだろう?ナマエも練習やるのか?」
田島祖父の問いに対して三橋は「はいっ、練習…です!」と答えた。
「私はマネジなので練習はしないです。勉強しながら待つか、あとはいつも晩ごはんごちそうになってるので今日くらいは家事お手伝いとかさせてください。」
ナマエは田島祖父にそう言った。
「ナマエは家事なんてしなくていいよ。勉強しながらでいいから話し相手になってくれた方が嬉しいね!」
「なんか2人ともやけに親しくね?」
泉が三橋とナマエに向かってそう言った。
「よく来てんのか?」
阿部も訊ねてきた。
「月曜、は、オレんち、か、ここ、来る時ある」
三橋が答えた。
「私はまだ数回しか来たことないよ」
ナマエはそう言った。
「マジか!3人で来てたってことかよ。オレも誘えよな~!」
泉がそう言った。
「あのさ、じーちゃん、マウンド作りたいんだけどネコ車4~5杯分の土ってどっかから取れないかな?」
田島が田島祖父に訊ねた。
「マウンドってどこに?」
「蔵の前の木の下。あと角材ももらっていい?」
「あー、それはかまわないよ。土は土壌の中身出していいよ」
「ありがとう!」
「マウンドってことはレンが投げんの?」
田島祖父が訊ねると三橋は「はいっ」と返事をした。
「おし、オレちっとションベン。レンは先に車庫で角材探してて。」
田島は縁側に腰かけて靴を脱ぎながらそう言った。三橋は「うんっ」と返事をした。
「ナマエは家の中入って待ってるか?」
「いや、角材探しくらいは私も手伝うよ」
「じゃー、レンについてって」
田島はそう言うとトイレに向かって走っていった。
「ゆうくんのおじいさん、ありがとうございます!」
三橋は田島祖父に向かって頭を下げた。それを見たナマエも「ありがとうございます」と言って頭を下げる。
「車庫は、こっち、だよ」
そう言って歩き出した三橋の後をナマエたちは追いかけた。車庫はものすごく広くて色んなものが置いてあった。2階に登るためのはしごもある。阿部も泉も「探検してぇな!」「ヤバい、ここ、たのしー!」と大興奮だ。
「なァ、三橋とミョウジってここじゃレンとナマエなの?」
泉がそう訊ねてきた。三橋は何を訊かれているかわからないようで疑問符を浮かべて困惑している。
「そいでゆうくんなわけ?」
泉が続けて質問した。三橋はまだ意味がわからないようで疑問符を浮かべている。
「ミョウジは田島のこと何て呼んでんだ?」
「ここでは"悠一郎"だね」
ナマエがそう答えると泉は「はあー!?」と言って唖然とした顔をした。
「三橋は普段は"田島君"と"三橋"だろっ!?そいでミョウジは"田島君"と"ミョウジ"じゃんか!」
泉は珍しく大きな声を出してそう問いただした。
「あの、みんながレンて言うから、田島君も、レンで、みんながゆうって言うから、オレもゆうくん…」
三橋はあたふたしながら泉に事情を説明した。
「なんで学校ではそうしねーの?」
「みっ、みんなが田島って言うから、たっ田島君で、みんなが…」
三橋は再度あたふたしながら追加の説明を行った。
「ああ、うん、わかった…」
泉はそう言ってガクッと首を垂れた。
「ミョウジもそういうことなのか?」
泉は今度はナマエに訊ねてきた。
「うーんと、田島家でご飯食べるとね、ご家族の方から"ナマエ"って下の名前を連呼されるんだ。で、悠一郎もそれに影響受けて田島家にいる時は私のことを"ナマエ"って呼ぶの。で、悠一郎が下の名前で呼んでくれてるのに私だけ名字呼びじゃなんか悪いでしょ。だから私もその時だけは"悠一郎"って呼ぶことにしてる。」
「そうなのか…。ちなみに田島家にいる時は三橋のことも"レン"って呼んでんの?」
「うん、そうだね」
「三橋はミョウジのこと何て呼ぶんだ?」
「オ、オレ、は、…ナマエちゃ、ん、て呼ぶ」
「はああー!?」
泉はそう言って再度ガクッと首を垂れた。
「オレも…レンとナマエな!」
泉はそう言いながら顔を上げた。
「えっ、泉君もレンて呼ば…」
「ちがうだろ!!」
間違った解釈をしそうになった三橋に泉はすかさずツッコミを入れた。
「オレはコーちゃんだな、馴染みがあるのは。孝介でもいいけど。あー、田島んちの人にそう呼んでもらえばいいのか。」
「泉君て家ではコーちゃんって呼ばれてんの?かわいいね。」
ナマエはそう言ってクスッと笑った。すると泉はカァァと顔が赤くなった。
「じゃあ、スケコーにしよう!」
トイレから戻ってきた田島がそう言った。しかし泉がジト目で「コースケだ、コースケ」と田島に迫ったので田島は冷や汗をかきながら「コースケだって」と三橋に言った。三橋は「コースケ、コースケ」とロボットのように繰り返している。そんな折、1人で真面目に角材探しをしていた阿部がようやく角材を見つけた。
「角材あった!メジャーとのこぎりだしてくれっか。早く始めねえともう4時になる…。」
阿部がそう言っている中、田島は「ナマエ、コースケ、悠、レンレンー」とみんなの下の名前を連呼していた。(ちなみに"レンレン"と呼ばれた三橋は「レンだよ!」とキッパリと否定していた。よっぽどレンレン呼びは嫌らしい。)
「オレはタカでもタカヤでも」
これまで我関せずといった様子だった阿部が突如そう言ってきた。
「んじゃアベヤ!」
田島がまたふざけたあだ名をつけようとすると阿部は「タカヤだっつってんだろ」と言って田島にうめぼしを食らわせた。
泉がメジャーとノコギリを見つけると阿部は角材をピッチャープレートのサイズになるように測ってから削り始めた。角材が準備できたら次は土壌を運んできて土を出し、シャベルで土を慣らしてマウンド作りをする。これは力仕事なのでナマエは手伝わない。ナマエは田島家の中に上がらせてもらって縁側から田島祖父と一緒にみんなの様子を見学した。阿部と三橋がちょうどマウンドを作り終わったところで田島母と田島の下の姉の佳乃子が帰ってきた。
「あ、ナマエちゃん、来てたの!いらっしゃい!」
「こんにちは!お邪魔してます。」
ナマエは立ち上がってペコッと頭を下げた。
「今日はどうしたの?」
佳乃子がそういうと田島祖父が「部活がないからウチで練習したいんだと。今ちょうどマウンドを作り終えたところだ。」と答えた。
「え!どれがマウンド?」
「蔵の前のやつだよ」
佳乃子と田島祖父がそんな会話をしているとそれを聞きつけた他の田島家の家族も続々と縁側に集まってきた。
「悠が投げるんか?」
「悠は投げないの!レンよ!」
「蚊取り線香、タカヤのそばにも置いてやろう」
「あざっす」
「レーン!がんばれー!」
「レンってホントにピッチャーだったのねー!」
縁側はあっという間にギャラリーでいっぱいになった。
「1球!」
阿部が大きな声で三橋にそう言った。いよいよ投球練習の始まりだ。三橋が1球投げるとギャラリーは「レンすごい!」「はやーい!」と盛り上がった。
「コースケ!ちょっとここへ立ってやれ!」
田島祖父が泉にそう言った。泉は打席に立ってポーズを構えた。
「おお、コースケも決まってるぞ」
「打ちそう、コースケ!」
「あんな球打てるの?コースケ、打ってー!」
「打っちゃ危ないだろ。立ってるだけだ。」
「タカヤの球もけっこー速いね!」
三橋が1球投げる度にギャラリーではこのような掛け声が飛び交った。ワイワイとしていてとても賑やかだ。その中に交じっているナマエもとても楽しい気分になった。普段はマネジの仕事で忙しくて、阿部と三橋のブルペンの様子をゆっくり見れる機会はあまりないし、しかも今日は阿部の真後ろから見れるのだ。元々は選手4人が練習中はナマエは勉強してようと思っていたのだが、ナマエはせっかくの貴重なこの機会を逃すのはもったいないと考え直して投球練習を見学することにした。
しばらく投球練習をしていた阿部と三橋だったが、10球投げたところで阿部が三橋に駆け寄った。それから阿部は田島にキャッチャーを代わってほしいと頼んだ。そして田島がキャッチャー防具を身に着けてブルペンに座ると阿部はスマホを取り出して三橋の投球フォームの撮影を始めた。それを見ていたナマエは『やっぱり三橋はまだ調子がおかしいんだな』と察した。
ちなみに4月にはガラケーしかなかったおお振りの世界でもついに8月にスマートフォンが発売された。阿部はもうガラケーからスマホに機種変更をしたらしい。ナマエはスマホを持っている阿部を見て『いいなぁ』と羨ましく思った。ナマエがこの世界に来る前にいた元の世界ではもうガラケーの生産はほぼ終了していてスマホが主流だった。スマホの便利さを知っているナマエはこの世界に来てガラケーの時代に戻されてしまって色々と不便に思うことがよくあった。
『やっぱり私もスマホ買ってもらおうかな。だって周りが続々とスマホに変えてってるもん。マネジの仕事やるにしても絶対スマホあった方が便利だし。』
ナマエはさっそく自分のケータイを取り出して母親に"スマホに機種変したい"とメールで連絡を入れてみた。母親からは"あとでお父さんと話し合ってみるね"と返信があった。
一方、阿部たちの方は三橋の投球フォームの動画をコーチに送ったらしい。コーチからはすぐ返信があった。阿部はその内容を見て渋い顔をしている。
「100球って多くねーか」
阿部がそう言った。どうやら100球投げ込みするように指示が出たようだ。渋る阿部を田島と泉の2人は説得していた。
「暗くなんぞ!始めようぜ!」
田島がそう言った。散々渋っていた阿部だが最終的には納得したらしい。再開された投球練習は今までとは少し違った。三橋が投げてはすぐ阿部が戻し、また三橋が投げて…といった感じで速いテンポでどんどん投球を繰り返していく。そうしていくうちに陽は少しずつ傾いていった。
「佳乃子、ゆずさん、悠たちに差し入れのおにぎり作るから手伝ってくれるー?」
田島母がギャラリーにいる田島の姉と義姉を呼んだ。佳乃子とゆず香は「はーい」と返事をしてキッチンに向かった。
「あ、私にも手伝わせてください!」
ナマエはそう言って立ち上がり、佳乃子とゆず香を追いかけた。
「ナマエちゃんも手伝ってくれるの?お客さんなんだからゆっくりしてていいのよ?」
田島母はナマエにそう言った。
「いえ、やりたいです!私だけ何もしてないで見てるだけなんていたたまれないんでやらせてください。」
ナマエはそう言った。
「そう?じゃあ、ナマエちゃんは佳乃子と一緒におにぎり作りをお願い。で、ゆずさんは梨の準備ね。」
「はい!」
ナマエはそう言ってさっそくおにぎり作りに取り掛かった。
夕陽が地平線に隠れる頃、選手たちの練習は終わりになった。4人分のおにぎり・梨・漬物・飲み物の準備を終えたナマエたちはそれらをお盆に載せて縁側へと運んだ。
「手と顔洗っておむすび食べなさーい」
田島母がそう言うと選手たちはものすごく嬉しそうな顔をしてガッと近づいてきた。
「ありがとうございます!!」
「うまそうっ」
「はえーよ!」
田島たちはドタドタと足音を立てて洗面所に行き、手と顔を洗ってから戻ってきた。
「あらためましてっ、うまそう!」
田島がそう言った。
「「「うまそうっ!いただきます!」」」
続けて阿部・三橋・泉の3人がそう応じた。そして4人はものすごい勢いでおにぎりを頬張り始めた。ちなみに田島母はナマエにもおにぎりを食べていくかと訊ねてくれたが、ナマエは今食事を取ったら夕食が食べられなくなりそうなので断った。男子たちが食事をしている間、ナマエは使い終わったバットやヘルメットなどの道具の手入れと片付けをした。
男子たちの食事が終わったら学校から借りてきたヘルメットやベースを返すために裏グラに戻ることになった。田島と三橋はランニングをしながら、阿部と泉とナマエは自転車を漕ぎながら裏グラに向かった。裏グラに到着するとコーチがいた。その後ろからモモカンも顔を出した。コーチは特投げした回数と同じ分だけ裏の筋肉を鍛えることで故障しないようにすると言い出した。ナマエたちがよく意味がわからないでいるとコーチは「見てな」と言ってジャンプしながら左右にくるりと何度も回転してみせた。
「簡単だろ?やってみな。」
コーチにそう指示されて選手たち4人が同じことをやろうと挑戦したが田島以外は最後の左回転で正面に身体を戻すことができなかった。
「あれ!?」
「なんでだ!」
選手たちは簡単そうに見えたジャンプ回転ができないことに驚いていた。コーチ曰く、それは全身のバランスが整っていないせいらしい。そして故障しないためには身体のバランスを整えることが大事なんだと言う。ちなみにバランスとは左右整えればいいという訳ではなく、上下・前後・内外・神経も含めた全てのバランスを意識する必要があるそうだ。ナマエはその話を聞きながら必死にメモを取った。それからコーチは事前にベンチにロープとそれ引っかけるための吊り具と重しを用意してくれていた。これは"ロープ引き"という道具らしい。投球練習した分と同じ分だけ逆の腕でロープ引きを行うことでバランスを整えることができるそうだ。また、投球と逆の動作をやることで裏の筋肉も鍛えられるという。それから会話の流れで故障に関する説明がコーチから行われた。コーチは大学で肩を故障して野球をやめたらしい。そしてコーチは自分の他にも故障でやめていく選手を何人も見てきたと言った。
「故障はさせない。いいな!」
コーチは力強くそう断言した。それからコーチはなぜ野球選手に故障が多いのかを解説してくれた。その理由は野球の投手は同じ動作ばかりを繰り返していて他の筋肉とのバランスが悪くなっているからだそうだ。他のスポーツでも投球と同じような動きはもちろんあるが、その動作だけしかしないなんてことはない。テニスにはスマッシュの他にフォアやバックや両手打ちなんかもあるし、バレーボールだって利き腕とは逆の腕で打つ時もある。だから他のスポーツでは自然にバランスよく筋肉が鍛えられるが、野球はそうではない。なのでロープ引きでバランス調整が必要というわけなのだった。その説明を受けた選手たちは実際にロープ引きの作業に着手し始めた。ナマエはその間に借りてきた道具を備品棚に戻したり、ノートパソコンで今コーチから教えてもらった内容を文字に書き起こしたりして過ごした。選手たちのロープ引きが終わったらコーチとモモカンは車に乗って帰っていった。時刻は18時半を過ぎていた。10月になるとこの時間にはもう日が暮れて辺りは真っ暗だ。
「帰ろう!」
泉がそう言った。
「勉強しないとね」
ナマエはそう言って自転車のサドルに腰かけた。
「……オレ、寝てしまう自信がある!」
田島は青ざめながらそう言った。
「オ…オレもっっ」
同じく三橋も真っ青な顔でそう言った。阿部と泉とナマエは顔を見合わせた。
「……メシ食ったらお前んち行くわ」
阿部が三橋にそう言った。それを聞いた田島は「オレも行く!」と食いついた。
「オ、オレんちに?オレが、い…行こうか?」
「お前んちが一番集まりやすいんだよ。カバン持ってってやるからさっさと帰れ。」
阿部はそう言って三橋からエナメルバッグを取り上げた。
「私も行く。三橋君の家ならうちから近いし。」
ナマエはそう言った。
「オレは遠いからやめとく。自力でがんばるよ。」
泉がそう言うと田島は「じゃあ電話するよ!」と言った。
「みんな、がんばろーなっ」
田島がそう言うとナマエを含めた他4人は「おおっ」と言って気合を入れた。
ナマエは家に帰って夕食を食べた後、軽くシャワーを浴びてから私服に着替えをした。自転車に乗って三橋家に向かっているとケータイに着信があった。阿部だ。
「もしもし?阿部?」
「おー。こっちは今三橋ンち着いたとこだけど、そっちはどーだ?」
「えっ、もう着いたの?私は今向かってるところ!あと5分くらいで着くと思う。」
「了解。田島もそんくらいで着くって言ってたから門のところで待っとくわ。」
「うん、すぐ行くね」
通話を切ったナマエは三橋家に向かって自転車を走らせた。ナマエが三橋家の門に到着すると田島が三橋家の敷地内に自転車を停めているところだった。隣に阿部が立っている。
「ごめんっ。お待たせ!」
ナマエが阿部と田島の背中に向かって声を掛けると田島が振り向いた。
「おー、ナマエ!オレも今着いたばっかだぜ。」
田島はそう言って大きく手を振った。田島から下の名前で呼ばれたナマエは『ああ、今も名前呼びモードなのね』と思った。ナマエは田島が名前呼びする時は自分も名前呼びで返すことにしている。
「じゃ、行くか」
阿部はスタスタと歩いて三橋家の玄関のインターフォンを押した。ダッという足音が近づいてきて、ガラガラーッと三橋家の玄関が開いた。
「おっ、おそろいで!」
三橋はそう言って迎えてくれた。
「おばさんたち今日もいないの?」
田島がそう訊ねると「うん、10時くらい」と三橋は答えた。阿部は「お前いつもそんな時間まで1人なの?」と訊ねた。
「いつも…じゃない。時々は早く、帰ってくる。お父さんは、時々、帰ってくる。」
三橋はそう答えながらリビングのテーブルを動かした。
「ここで、勉強しよう」
三橋はそう言った。三橋の話を聞いてビミョーな顔をしている阿部を見た田島は「なー、教育上良くないだろ?だからうちに呼んじゃうんだ。」と言った。
「ゆうくんち、ス、スキだ!」
「スキなのはうちの食いもんだろ。レンの餌付けは簡単だってうちのお母さん言ってたぞ。」
田島はそう言ってスタスタと三橋家のキッチンに入っていった。
「冷凍庫いっぱいだー。アイス入んねえ。」
「アイス買ってきたんだ?」
ナマエは田島に訊ねた。
「おう、ちゃんとナマエたちの分もあるぞ」
田島はそう言ってニィッと笑った。
「レン、私も差し入れで飲み物買ってきたよ」
ナマエがそう言うと三橋は「うおっ、あ、ありがとう!」と言った。
「じゃあ、コップ出さねえとな」
田島がそう言った。
「あ、ゆうくんのコップ、こっち。ナマエちゃんの、も、ここにある。」
三橋はそう言って食器棚を指さした。ここで三橋は何か思いついたようで「あ」と言った。
「あ、あ、阿部君、のも、決める…?」
三橋はそう言いながら顔がボッと赤くなった。
「は?」
阿部は何の話かわからないらしい。
「オレのは、これなんだー」
三橋はそう言って自分のコップを取り出した。
「私のはこれだよー。で、こっちは悠一郎の!」
ナマエはそう言って食器棚から取り出したコップを阿部に見せつけた。
「コップの話だな」
田島が話についていけてない阿部のために解説をした。
「………」
阿部は三橋・田島・ナマエのやりとりを見ながらしばらく考え込んだ。そして唐突に「レン」と呼んだ。三橋はギシッと固まった。
「レーン、オレこれ使う。いい?」
三橋は固まったまま返事をしない。
「ナマエ、牛乳買ってきてくれたのか!飲んでいいー?」
田島がそう言った。ナマエは「うん、いいよー」と返事をした。そして田島のコップに牛乳を注いであげた。
「あ、オレもっ」
そう言いながら三橋が自分のコップを持って近づいてきた。ナマエは三橋のコップにも牛乳を注いであげた。
「あ、阿部君も?」
三橋が阿部の方を振り返って訊ねた。
「タカヤだ、タカヤ」
阿部はそう言った。三橋は頭に疑問符を浮かべている。
「阿部じゃなくてタカヤ。せーのっ!」
「「タカヤー」」
田島とナマエは声を揃えてそう言った。しかし、三橋は口をパクパクさせたまま声が出ていない。
「プログラム上、この動作はできないようになってるみたいだ」
田島がそう言った。ナマエはプフーッと吹き出した。
「じゃー、君付けやめんのは?」
阿部は代替案を出した。しかし、田島に「全員君付けだぞ。阿部だけ外すのは無理だろうなァ。」と却下された。
「タカヤ」
阿部は田島が"阿部"呼びしたことについてタカヤと訂正をした。
「ああ、タカヤね」
「レン、隆也にこのグラス使わせていいんだよね?」
ナマエは阿部の希望通り隆也呼びしてやることにした。三橋は「うんっ」と言って頷いたのでナマエはそのコップに牛乳を注いで阿部に手渡した。
「じゃあ、これが、阿部君のコップ、だ…!」
三橋がそう言うと阿部は再度「タカヤだ」と言った。三橋はまたギシッと固まって口をパクパクし始めた。
「阿部君っつー度に投球10球減らすのはどーだ」
阿部がそう言うと三橋はダアーッと泣き出した。
「いじめんなよー」
田島がそう言った。
「いじめてねーだろっ」
「いじめてる側はそれがいじめだと思ってないことが多いらしい。」
「……そうなのか?」
阿部は困惑していた。
「まー、タカヤだけに原因があるわけじゃないけど、この場合」
「そうか、よかった」
そう言ってジッと三橋を見つめる阿部。どうしてもタカヤと呼べない三橋。田島とナマエは顔を見合わせた。
「勉強始めようぜ」
田島がそう切り出した。
「そうだね」
ナマエは自分のグラスに麦茶を注いでからテーブルへと向かった。
今日は阿部がいるので数学の勉強をすることになった。阿部が教師役になって三橋と田島に教えてあげている。ナマエはそれを横で聞きながら自分も同じ問題を解いていった。
「ミョウジは問題ねぇな?」
阿部がそう言った。
「うん。…っていうか自分のことは隆也って呼ばせておいて私のことはミョウジ呼びするんだ。」
「は?ああ、そうか。お前らはミョウジのことなんて呼んでんだっけ?」
阿部が田島と三橋にそう訊ねると田島は元気な声で「ナマエー!」と言った。
「オ、オレは、"ナマエちゃん"」
三橋が答えた。
「じゃー、ナマエでいいか。ナマエもわかんねぇところあったら言えよ。」
「うん、今のところ平気」
そうして勉強しているうちに田島が寝落ちした。それに三橋もウトウトしている。
「少し休憩すっか」
阿部がそう言いながら大きな欠伸をした。
『やっぱ練習終わりだし、疲れてるよね』
ナマエはそう思いながらキッチンに向かった。田島が買ってきてくれたアイスを食べようと思ったのだ。冷凍庫を開け、田島の差し入れのアイスを取り出してからリビングに戻るとこの僅か1~2分の間に三橋も阿部も寝てしまっていた。
『ま、30分くらい寝かせてあげるか』
ナマエはそう思いながらガリガリ君を取り出して食べ始めた。ガリガリ君を食べ終わったナマエは1人で勉強を再開した。しかし、3人がすやすやと眠っている中で1人で黙々と勉強していると次第にナマエも眠くなってきてしまった。気付いたらナマエもテーブルに突っ伏して眠っていた。仕事から帰ってきた三橋母の「はーい、みんな起きてー!」の声で4人は目を覚ましたのだった。
時刻はもう22時を過ぎていた。ナマエは慌てて母親に電話をかけた。
「お母さん!?ごめん、レン…あ、三橋君のことね、その家で勉強会してたら気付いたら寝落ちしちゃってた!今から帰る!」
ナマエがそう言うと母親は「あらら、そうなの。もう時間も遅いから気を付けて帰ってきてね。」と言った。それからナマエたちは自分が使ったコップを洗い、片付けを済ませてから急いで家に帰った。
<END>