それまではろくに話をしたこともなかった。ただのクラスメイトの一人で、何とも思っていなかった。名前を知っているくらいのものだ。それが変わったのは、その人が忌引きで学校を休んだからだった。
栄口夢小説「悲しみの谷底から」
栄口勇人は中学の頃に母親を亡くしていた。今はもうだいぶ平気になったけど、当時はやっぱりツラかった。母への思いが溢れて、会いたくて、でも絶対に会えない人になってしまった。その事実が受け入れ難くて、もがき苦しんだ。そんな経験をしているから、忌引きで休んだクラスメイトの広瀬杏奈のことが気になった。『忌引きってことは、身内に不幸があったってことだよな』
まあ、自分たちの年齢だと祖父母が亡くなるってことはそんなに珍しいものでもないし、それ相応の歳まで生きた祖父母が寿命で亡くなったというのなら、もしかしたら栄口が中学時代に抱えていた程の苦しみではないのかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。栄口は広瀬が万が一この事で苦しむことがあったら、何か力になりたいと思った。
忌引き休暇明けに登校してきた広瀬は一見普通に見えた。友人たちに囲まれて、普段通りに談笑している。
『笑ってるや、よかった。』
栄口は一安心した。そして広瀬の忌引きのことなんてすっかり忘れてしまった。
それを再度思い出したのはそれから約一ヶ月半後のことだ。広瀬杏奈は法事で学校を休んだ。
『四十九日だ』
母を亡くしたことがある栄口はすぐにそのことに気が付いた。自分が四十九日を迎えた時は、同時に納骨をした。お墓に母の遺骨を納める時、栄口は母が家から離れていってしまうような気分がして涙が止まらなかったことを思い出した。
『広瀬さんは今どんな気持ちで過ごしているんだろう』
忌引き休暇明けの彼女は平気そうな顔をしていたけれど、もしかしたら内心は苦しんでいるかもしれない。だって栄口はそうだった。友達の前で暗い顔なんて見せられなくて努めて明るく振る舞った。けど心のうちはいつも空虚だった。
『次に広瀬さんが出席した時、ちょっと話しかけてみようかな』
栄口はその日そう決意した。
明日、広瀬杏奈は学校を休んだ。法事じゃない。普通に休みだった。
『やっぱメンタルにきてるのかな?』
栄口は心配になった。その日は金曜日だったので、次に広瀬に会えるのは週明けとなった。
週明けには広瀬は登校してきた。友達と談笑している姿も見れた。
『やっぱり話しかける必要ないかも…。今までろくに話したことない奴に身内の事情聞かれるのなんてイヤかもしれないし。』
栄口はそう思いながら、授業中に窓際の席の広瀬の姿を眺めていた。その時は古典の授業中で教師が人生やこの世の儚さを詠った和歌の解説をしていた。その時に広瀬の目から一粒の涙が零れ落ちたのを栄口は目撃した。広瀬は慌てて目を拭って平気な素振りをしてみせた。でもその授業中、広瀬の瞳が何度も潤んでは広瀬が俯いて必死に涙を堪えていたことに栄口は気付いていた。
『広瀬さんは全然平気じゃない。平気なふりをしているだけだ。』
栄口は確信を持った。栄口は次の音楽の授業のために音楽室へ移動中の広瀬を見つけた。いつも一緒にいる友人たちは音楽を選択していないらしく珍しく一人だった。『話しかけるなら今だ』と栄口は思った。
「広瀬さん」
「あ、はい?」
広瀬が振り返った。栄口の姿を見て、"意外"という表情をした。
「いきなりごめんね」
「や、全然いいけど、どうしたの?」
「いやー…あの、さ」
栄口は話しかけたもののなんて切りだしたらいいか、いいアイディアが浮かばなくて迷った。で、単刀直入に言うことにした。
「ごめん、オレさっき古典の授業中に広瀬さんが泣いてるの見ちゃった」
ハッとして気まずそうな顔になる広瀬。
「でさ、広瀬さんてこの間法事で休んでたよね。その前は忌引きで休んでた。あの、言いたくなかったらいいんだけど、身内の誰か亡くなったんだよね…?」
「…………」
広瀬はバツが悪そうな顔で黙り込んだ。
「あ、いや、言いたくなかったらいいんだ。ゴメン。でも、俺さ中学時代に母親を亡くしてんだ。だからもし広瀬さんが今ツラい思いをしてるなら、少しは気持ちをわかってあげられるかもしれないって思ってさ。迷惑だったらゴメン。」
栄口は焦ってそう捲し立てた。
「……栄口君、お母さん亡くなってるの?」
広瀬はおずおずと訊ねてきた。
「うん、そうなんだ」
栄口は答えた。
「……ツラかったよね?」
「うん、ツラかった」
「……今もツラい?」
「…うん、今でも悲しくなる時はあるよ。でも、以前と比べたらだいぶマシになった。」
広瀬は栄口の顔をまじまじと見た。
「どうやったら、マシに、なる…?」
そう訊ねる広瀬の目には涙が溜まっていて今にも溢れそうだった。
「正直、これをやればいいっていう答えはないんだと思うんだ。ツラいことだけど。」
栄口はそう答えた。
「けど、泣きたい時は思いっきり泣いて、故人への思いが溢れた時はそれを声に出したり、文字に出したりして、ホントにしんどい時は休んで、そうやって少しずつ少しずつ乗り越えていくんだと思うんだよ。」
今や広瀬の目からはボロボロと涙が零れ落ちていた。栄口は「使って」とハンカチを広瀬に渡した。
「あのさ、迷惑じゃなかったら、LINE交換しない?ツラくなった時に気軽に連絡してよ。話聞くよ。もしかしたらそれで少しは心軽くなるかもしれないよ。」
栄口はスマホを取り出した。
「でも、私、めっちゃネガティブで暗いこと言うよ?」
広瀬は躊躇した。
「全然いいよ。っていうか身内に不幸があったんだから、暗くて当然だよ。代わりにオレも母親のこと聞いてもらおうかな。」
「うん、聞くよ。私で良かったら、聞く。」
広瀬はスマホを取り出した。栄口と広瀬はLINEを交換した。
「今スタンプ送ってみたよ。届いた?」
「届いたよ。なにこの変なスタンプ。」
栄口の送ったゆるキャラスタンプに広瀬がクスッと笑った。
「……ところで、誰が亡くなったのか訊いてもいい?」
栄口はずっと気になっていたことを意を決して訊ねてみた。
「お兄ちゃん」
「お兄さん?何コ上?」
「2コ」
「ずいぶんと若くして亡くなったんだね。なんか病気だった?」
「それが、さ、…自殺で、さ」
話しながら広瀬はまた涙が込み上げてきたみたいだった。
「…そっか、それは一層ツラいね。ゴメンね、ツラいこと言わせて。」
「ううん、これから話聞いてもらうなら遅かれ早かれ栄口君には言うことになってたから、いいんだ。こっちこそホント暗い話題でゴメンね。」
「オレから聞いたんだからいいんだよ」
栄口はハハッと笑った。
「栄口君のお母さんはなんかの病気だったの?」
「そう、癌でね」
「それはそれでツラいよね」
「そうだね、自殺とはまた違ったツラさがある…かな」
栄口は当時のことを思い出して遠い目をした。
「広瀬さんさ、いつも何時くらいに寝るの?」
「えっと23時~0時の間くらいになることが多いかな」
「22時半頃って暇してる?」
「うん、そうだね。ベッドでスマホ触ってることが多い」
「じゃあ今日の22時半頃、電話しない?今、抱えてること話聞かせてよ。」
「……いいの?部活終わりで疲れてない?」
「いいよ!代わりにオレも話聞いてもらうからさ、おあいこってことで!」
「ありがとう、栄口君!」
広瀬はパアッ花が咲くみたいに笑った。ちょうど音楽の教室に着いた。
「杏奈ー!今日の席こっちー!」
広瀬は別のクラスに音楽選択の友人がいるみたいだ。音楽は席自由なので、仲の良い友人同士でまとまって座るのだ。
「じゃあ、栄口君、また後で」
「はいよー」
広瀬と別れた栄口は別クラスの男子たちの中に交ぜてもらった。
その日の夜、栄口は広瀬と電話で話をした。広瀬は電話口で兄への想いや後悔や悲しみをたくさん語った。電話口の向こうで泣いているのわかった。あの忌引き休暇の時から約一ヶ月半、広瀬は一人でこんな悲痛な苦しみを抱え込んでいたんだと思ったらもっともっと早く話しかけておけばよかったと栄口は後悔した。でも後悔しても時間は戻らない。これからはたくさん話を聞いてあげて少しでも広瀬を悲しみの谷底から引っ張りあげてやるんだと栄口は強く決意したのだった。
<END>